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EDUCATION | 竜洋の教育史 ── 寺子屋から戦後改革まで

竜洋の学び舎の歩み
── 寺子屋から竜洋西・東・北小学校、竜洋中学校まで

竜洋(現・磐田市竜洋地区)の教育は、江戸期の寺子屋・私塾にはじまり、明治5年(1872年)の学制発布によって近代的な学校制度へと移り変わっていった。掛塚・袖浦・十束・長野といった旧村々では、それぞれの地に小学校が生まれ、幾度もの統合と改称を経て、現在の竜洋西小学校・竜洋東小学校・竜洋北小学校・掛塚小学校・竜洋中学校へとつながっていく。ここでは、その学び舎の移り変わりを、戦時下の教育統制や戦後の学制改革までを含めて、資料に基づいて一本の読み物として整理する。
本ページは提供資料「四、近代教育の変遷」(磐田市誌・掛塚町沿革誌第八編教育等を典拠とする編纂物と推定されるが、書名・編者・発行年は確認できていない。出典:提供資料〈書誌未確認〉)をもとに、磐田物語が独自に再構成したものである。原資料は二段組の記述で、学校の統合・改称の前後関係が判読しにくい箇所が複数ある。年月日の記載が資料内で重複・錯綜している部分は、無理に一本の確定年表とせず、判明している範囲の要点を中心に整理し、断定できない箇所は「〜とされる」「原資料では判読が難しい」と明記した。

近代教育以前 ── 寺子屋と私塾の時代

明治以来の郷土の発展を振り返るとき、教育が果たした役割は大きい。近代的な教育制度は明治5年(1872年)の学制によって確立したが、その発展の素地は、旧藩時代からの寺子屋・私塾・藩校などにすでに築かれていた。庶民にもっとも親しまれた教育は寺子屋で、多くは寺院で僧侶が指導にあたった。学ぶ内容は読み書きが中心で、いろは、片仮名、人名や国名、童子訓、往来物(手紙形式の教材)などを手本に、半紙が真っ黒になるまで手習いを重ねたという。通学する子どもの数は、多くてもせいぜい20人から30人ほどにとどまった。

授業料は決まった額があったわけではなく、「束脩(そくしゅう)」と呼ばれる入門料のほかに、盆や年末に一朱ないし一分ほどの金を届けたり、随時、師匠の生活の足しになる農作物を贈ったり、師匠の農作業を手伝ったりする程度であった。寺子屋のほかに、優れた漢学者・国学者が高度な学問を教える私塾もあり、遠州地方では浜松の「渡辺豪庵塾」などが知られ、他地域からもこの塾を慕って学びに来る者が少なくなかったと伝えられる。

国学の面では、浜松の神官・杉浦国頭が妻の真崎とともに『日本書紀』の研究に生涯を捧げ、その門人から加茂真淵が現れた。真淵は京都で荷田春満の教えを直接受け、当時の遠州思想界を導く存在となった。この学風は天竜川流域の内山真龍や小笠郡の栗田土満らに引き継がれ、いわゆる遠州の国学として広がりを見せた。勤勉や推譲を説く報徳運動も各地に及び、こうした学びの土壌が、後の近代教育を受け入れる素地になったと考えられる。

学制発布と竜洋の学校のはじまり

明治維新を迎え、近代教育への要求は静岡県内の各地で芽生えはじめた。明治3年(1870年)には静岡藩小学校が中泉(現・磐田市中心部)に設立され、前島密や塚原重応らが力を合わせて開いた塾的な学校も、やがて静岡藩学校の一部となった。これが現在の磐田市立磐田中部小学校の前身にあたるとされる。

明治5年(1872年)、政府は文部省を設け、「必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」ことを目指す「被仰出書」とともに「学制」を頒布し、近代教育制度を確立した。この学制発布を受けて、竜洋町域(当時の掛塚・袖浦・十束などの旧村々)でも、村や地区ごとに小学校が次々と開かれていく。海老島の海老島小学校、川袋村の川袋小学校、小島の村立小島尋常小学校(竜門館)など、地域の実情に合わせた小さな学校が、まず各集落に置かれた形である。

竜洋西・東・北小学校の沿革

竜洋町立竜洋西・東・北小学校の前身にあたる小学校は、いずれも学制発布後の明治初期に、集落ごとに開かれた小さな学校から始まっている。その後、明治から昭和にかけて統合と改称を繰り返しながら、現在の3校の姿へとつながっていった。原資料の記述は前後関係が判読しにくい箇所が多く、ここでは判明している範囲の要点を年表として整理する。

表1 竜洋西・東・北小学校の沿革(要点、提供資料による)
学校前身・成立の経緯(要点)戦後・現在までの改称
竜洋東小学校小島の村立小島尋常小学校(竜門館)と、長野・袖浦方面の小学校が明治期に組合・統合を重ねて成立したとされる。明治26年(1893年)頃、長野村・袖浦村の組合立として校地を選定し校舎を新築、村立長野竜洋東小学校と称したとみられる(原資料では前後関係の判読が難しい)昭和16年(1941年)の教育制度改正で袖浦村立竜洋東小学校、昭和30年(1955年)の町村合併で竜洋町立竜洋東小学校となる
竜洋西小学校明治6年(1873年)5月、字砂町の敷地に校舎を新築し、掛塚小学校として西光寺の南、三岡氏宅付近に設立されたことを前身とする昭和16年(1941年)に袖浦村立竜洋西小学校、昭和30年(1955年)の町村合併で竜洋町立竜洋西小学校となる
竜洋北小学校明治15年(1882年)頃、宮本村海老島に開設された海老島小学校を前身とする。明治22年(1889年)頃、海老島心月寺に分教場を設置したとされるその後の改称を経て、昭和36年(1961年)4月に竜洋町立竜洋北小学校と改称された

竜洋東小学校の系譜については、資料の中で「小島尋常小学校」「竜門館」「長野袖浦小学校」「袖浦尋常高等小学校」など複数の校名が登場し、組合の設置・解消や校地の選定、校舎の新築が幾度も繰り返されたことが読み取れる。明治33年(1900年)前後には高等科(修業年限2ケ年)が置かれ、義務教育年限の延長にともなって高等科が廃止された時期もあったとされる。竜洋西小学校は、掛塚小学校を前身としながらも掛塚小学校自体は後に独立した学校として存続しており(後述)、両校の関係は資料上やや込み入っている。竜洋北小学校は海老島小学校を出発点とし、明治から昭和にかけて校名変更を重ねながら現在の姿に至ったとされるが、分教場の設置時期や統合の順序については、原資料でも判読が難しい箇所が残る。

掛塚小学校の沿革

掛塚小学校は、川袋村を中心とする明治初期の小学校を前身とする。明治6年(1873年)1月、川袋村外10ケ町の連合により、長谷川八郎の宅地内にあった長屋を校舎に充てて開かれたのが始まりとされる。当初は下等小学校・上等小学校に分かれており、明治12年(1879年)4月には川袋に高等科が併置された。明治18年(1885年)9月には火災に見舞われ校舎を全焼したとされるが、その後、地域の財政的な制約の中で組合を組織し、独立した高等小学校を設けていった。当時、高等小学校へ進む子どもの中には、浜松に寄宿して通った者もあったと伝えられる。

明治22年(1889年)前後に掛塚尋常小学校となり、明治27年(1894年)6月12日には吹上に掛塚高等小学校が新築・開校された。明治から大正にかけて、掛塚町立掛塚尋常小学校として運営が続けられ、大正5年(1916年)6月28日、田畑を買い入れて校舎を移転増築した掛塚尋常小学校が竣工し、同年9月2日に入校式が行われている。冒頭に掲げた古写真「大正5年開校の掛塚尋常小学校玄関」は、この校舎の姿を伝えるものである。

昭和16年(1941年)の国民学校令により、竜洋町立掛塚国民学校(初等科6ケ年・高等科2ケ年)と改称された。昭和22年(1947年)の学制改革では、義務教育が9ケ年(小学校6ケ年・中学校3ケ年)となり、中学校部分は掛塚中学校として独立した(これが後の竜洋中学校の系譜の一つにあたる)。小学校部分は昭和30年(1955年)の町村合併により竜洋町立掛塚小学校と改称され、現在に至る。

竜洋中学校の誕生

竜洋中学校は、昭和22年(1947年)の学制改革によって義務教育が9ケ年となったことを受けて誕生した。昭和23年(1948年)4月、掛塚町村組合立竜洋中学校の設置が認可され、掛塚・袖浦・十束・長野の各小学校の仮校舎を間借りする形で授業が始まった。独立した校舎を持たない、いわば「間借りの中学校」としての出発であった。

同年9月には第一期工事が竣工し、9月2日に入校式が行われている。昭和30年(1955年)4月の町村合併により、竜洋町組合立竜洋中学校から竜洋町立竜洋中学校へと改称され、現在に至る。掛塚・袖浦・十束・長野という、それまで別々の小学校区であった地域の子どもたちが、一つの中学校に集うようになったことは、竜洋町としての一体感が地域の教育の場にも表れた出来事であったといえる。

大正期 ── 新しい教育への模索

大正のはじめ頃は、まだ明治の人々の努力によって築かれた教育の枠組みがそのまま引き継がれ、「富国強兵のための人材育成」という目的が教育のねらいの中心にあった。しかし大正6年(1917年)に臨時教育会議が設置され、大正7年(1918年)には大学令が公布されるなど、明治以来の教育体系を見直す動きが始まる。大学卒業までの修業年限をどう短くするかが検討課題の一つとなり、七年制高校の設置や、中学校の入学資格の緩和(学力があれば年齢にかかわらず小学校5年修了で進学できるようにする案)なども議論された。

大正期には、児童の心と自主性を尊重しようとする教育観も広がりを見せた。大正7年(1918年)、鈴木三重吉の呼びかけで始まった「赤い鳥」の綴方教育(作文教育)や自由画教育運動は、一部の教育者・文化人に支持され、竜洋町の学校にもその面影が残っているとされる。また、義務教育を8ケ年に延ばす案も出されたが、地方の経済的な事情から実現には至らなかった。向学心の高まりとともに、尋常小学校卒業後に高等小学校や中学校、その他の上級学校へ進む子どもも次第に増えていった。

戦時下の教育と竜洋町

昭和12年(1937年)9月の日中戦争開始後、国民精神総動員運動が始まり、教育の現場にも国策の影響が強く及ぶようになった。当時の小学校の時間割を見ると、1年生は週21時間、5〜6年生は男子28時間・女子30時間を学び、その半分近くを国語の学習に充てていたという。尋常小学校卒業後に高等小学校へ進学する子どもの割合は、この頃で約87パーセントに達したとされる。

戦争が長期化するにつれて、学校を挙げての勤労奉仕・勤労動員が拡大していった。麦まきや芋掘りといった農作業の手伝いにとどまらず、水路を掘る土地改良工事、松の根を掘り出して松根油(ガソリンの代用)を採る作業まで、小学校の高学年児童が動員されるようになった。男子生徒はさらに軍需工場や学校内の工場での勤労動員に従事させられ、農学校などの生徒の中には満蒙開拓青少年義勇軍に加わり、大陸へ渡った者もいたと記されている。昭和14年(1939年)には浜松師範学校に拓務科が設置され、青少年義勇軍への参加を後押しする体制が整えられた。

女子生徒に対しても軍事教練や行進訓練、一日入営などが行われ、ダンスや徒手体操に代わって薙刀や木銃を用いた教練が課されるようになった。昭和17年(1942年)7月からは英語の授業が中止され、実業学校の在学年限短縮も行われている。昭和18年(1943年)には中等学校令により、中学校・女学校・実業学校の修業年限が従来の5ケ年から4ケ年に短縮された。

竜洋町には明野陸軍飛行学校の天竜飛行場があったため、戦争末期には再三にわたり米軍機の攻撃目標とされ、爆弾投下や機銃掃射を受けたと伝えられる。現在も残る天竜飛行場格納庫跡は、その記憶を今に伝えるものである。天竜川は、敵機が本土来襲時に進路を確認する目印にもなったとされ、地域の主婦たちは遠方まで買い出しに歩き、警防団による灯火管制や学童疎開も行われた。冒頭の写真キャプションにある「勝つまでは……」という言葉は、当時の合言葉として地域に残っていたと伝えられている。

戦後教育の出発

昭和19年(1944年)12月7日、熊野灘を震源とする東南海地震が発生し、竜洋町も大きな被害を受けた(災害については別稿を参照)。当時は報道管制のため、被害の実情は一般には十分に知られなかったとされる。空襲の激化とともに、学校教育そのものが一時停止に追い込まれる事態も起きた。校舎を失った学校では、野外で授業を行う「青空教室」が開かれ、教科書や学用品も不足する中での授業が続いた。

昭和20年(1945年)8月6日に広島、8月9日に長崎へ原子爆弾が投下され、8月15日の終戦の詔をもって戦争は終わった。同年9月14日には「新日本建設の教育方針」が発表され、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令のもと、修身・国史・地理の授業が一時停止され、教科書の不適切な記述を墨で塗りつぶす、いわゆる「墨塗り教科書」が使われた。昭和22年(1947年)3月には教育基本法・学校教育法が公布され、義務教育は9ケ年(小学校6ケ年・中学校3ケ年)となり、いわゆる六三制の学校体系が発足した。

竜洋町でも、新制中学校(竜洋中学校)の校舎建設は容易ではなかった。市町村の財政は乏しく、建設資材も極度に不足する中、土地・山林などの公有財産の処分や寄付金集め、旧軍隊の建築物の払い下げなど、地域住民の労苦によって校舎の建設が進められた。既存の施設や寄宿舎を教室に転用し、分散授業を行うなど、まさに「戦後の寺子屋教育」と呼べるような状況であったと伝えられる。

用語解説

寺子屋(てらこや)
江戸期に庶民の子弟へ読み書きを教えた民間の教育施設。寺院で僧侶が指導する例が多かった。
束脩(そくしゅう)
寺子屋・私塾へ入門する際に師匠へ納める入門料。決まった額はなく、盆・年末の金品や農作業の手伝いで代える例もあった。
学制(明治5年)
明治5年(1872年)に頒布された、日本で最初の近代的な教育制度に関する法令。国民皆学を目指した。
国民学校(こくみんがっこう)
昭和16年(1941年)の国民学校令により、それまでの尋常小学校・高等小学校を改めて設けられた学校。初等科6ケ年・高等科2ケ年。
墨塗り教科書
終戦直後、GHQの指令により、軍国主義的な記述などを墨で塗りつぶして使用した教科書。
六三制(ろくさんせい)
昭和22年(1947年)の学校教育法により発足した、小学校6ケ年・中学校3ケ年を義務教育とする学校体系。
学徒勤労動員
戦時下、生徒・学生を軍需工場や農作業などの労働に従事させた政策。小学校高学年児童も対象となった。

むすび ── 学び舎の記憶と地域の暮らし

竜洋西・東・北小学校、掛塚小学校、竜洋中学校。これらの学校は、それぞれ集落ごとの小さな学校から出発し、統合と改称を重ねながら、現在の姿へとたどり着いた。その歩みは、寺子屋の時代から続く「学びを地域で支える」という営みの延長線上にある。校舎が焼けても、仮校舎で授業を続け、戦後の窮乏の中でも校舎を建て直してきた先人たちの労苦は、いまの学校の姿の礎になっている。

家や土地の記憶をたどっていくと、その土地に暮らした人々がどのような学び舎に通い、どのような時代を生きたかという記憶に行き当たることがある。竜洋の学び舎の歩みが、地域の家や土地の来歴を考える際の一つの手がかりとなれば幸いである。

参考資料

  • 提供資料「四、近代教育の変遷」(全12ページ。参考文献として静岡県教育史、静岡県の百年、人物を中心とした教育郷土史、磐田郡誌、学校運営研究、自治行政大観、国民の歴史、近代のあけぼの、学校教育全書、日本百科大事典、近代のあゆみ、社会思想史研究、人間をみつめる、磐田市誌、掛塚町沿革誌第八編教育が挙げられている。出典:提供資料〈磐田市誌・掛塚町沿革誌等を典拠とする編纂物、書誌未確認〉)。
  • 資料内の写真キャプション:明治5年(1872年)海老島に設けられた海老島小学校/明治15年(1882年)小島に設けられた村立小学竜門館の額/大正5年(1916年)開校の掛塚尋常小学校玄関/竜洋北小学校の昔の卒業証書/天竜飛行場格納庫跡。

本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が竜洋地区の教育史の観点から再構成したものである。資料本文の丸写しではなく、図版・写真の転載も行っていない。原資料は二段組の記述で学校の統合・改称の前後関係が判読しにくい箇所があり、確定できない事項は本文中にその旨を明記した。原本の書誌(書名・編者・発行年)が未確認のため、確認でき次第この欄を更新する。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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