POSTWAR | 竜洋・教育史 震災と戦後 ── 学びが再び動き出すまで
東南海地震と竜洋の学校
── 空襲下の震災と学びの再開
昭和19年12月の東南海地震
昭和19年(1944年)12月7日、熊野灘を震源とする東南海地震が発生した。マグニチュード7.9程度とされるこの地震は、静岡県西部から三重県にかけての太平洋沿岸に大きな被害をもたらしたとされる。r025が記すとおり、竜洋町もこの地震で大きな被害を受けた。天竜川河口の沖積低地に立地する竜洋町域は、地盤の性質からも揺れの影響を受けやすい土地であったと考えられるが、震度や具体的な被害数値は、本ページで参照できる範囲の資料からは確認できない。
この地震が起きたのは、日中戦争・太平洋戦争が続く戦時下であり、しかも軍需工場が集積する東海地方を襲った震災であった。地震そのものの被害に加えて、戦時下という特殊な状況が、竜洋町の人々の経験をいっそう複雑なものにしたと考えられる。
竜洋町の被害と報道管制
r025が指摘するとおり、当時は報道管制のため、東南海地震の被害の実情は一般には十分に知られなかったとされる。軍需生産への影響を敵国に知られることを避けるため、政府は地震被害の報道を厳しく制限したことが知られている。竜洋町においても、被害の詳細が地域外に十分に伝わらないまま、住民は自力で復旧にあたらざるを得なかった可能性がある。
磐田市域の東南海地震については、磐田物語の別シリーズ「二十一世紀に伝えたい戦争体験」の一編「東南海地震と戦時下の岩田村」(h007)が、岩田村の証言者2名の記憶を紹介している。本ページは、証言の重複を避けるため、竜洋町・竜洋の学校という視点に絞り、個々の証言の詳細はh007に譲る。
空襲下の学校教育の停止
東南海地震に前後して、空襲の激化とともに、学校教育そのものが一時停止に追い込まれる事態も起きた。r025が記すとおり、校舎を失った学校では、野外で授業を行う「青空教室」が開かれ、教科書や学用品も不足する中での授業が続いた。竜洋町の学校が、地震と空襲という二重の困難の中で、どこまで授業を継続できていたのか、詳細な記録は本ページで参照できる範囲では確認できないが、地震による校舎の損傷と、空襲による授業の中断が重なった可能性は高いと考えられる。
昭和20年(1945年)8月6日に広島、8月9日に長崎へ原子爆弾が投下され、8月15日の終戦の詔をもって戦争は終わった。竜洋町の学校教育も、この終戦を境に、大きな転換点を迎えることになる。
GHQによる占領期の教育改革
昭和20年(1945年)9月14日には「新日本建設の教育方針」が発表され、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令のもと、日本の教育制度は大きく作り替えられていく。軍国主義的な教育内容の排除と、民主主義に基づく教育への転換が、占領期改革の基本方針であった。
竜洋町の学校も、この全国的な改革の波の中に置かれた。戦時下で強化されていた修身教育・軍事教練は廃止され、教育の目的そのものが「皇国民の錬成」から「民主的な国家・社会の形成者の育成」へと大きく転換されることになる。
墨塗り教科書と修身・国史・地理の停止
GHQの指令のもと、修身・国史・地理の授業が一時停止され、教科書の不適切な記述を墨で塗りつぶす、いわゆる「墨塗り教科書」が使われた。r025が紹介したこの光景は、竜洋町の学校でも変わらなかったと考えられる。子どもたちが、自分の手で教科書の記述を塗りつぶすという体験は、戦前・戦中の教育がいかに大きく方向転換したかを、身をもって示す出来事であった。
竜洋町でも、新制中学校(竜洋中学校)の校舎建設は容易ではなかった。市町村の財政は乏しく、建設資材も極度に不足する中、土地・山林などの公有財産の処分や寄付金集め、旧軍隊の建築物の払い下げなど、地域住民の労苦によって校舎の建設が進められた。既存の施設や寄宿舎を教室に転用し、分散授業を行うなど、まさに「戦後の寺子屋教育」と呼べるような状況であったと伝えられる。
六三制発足と竜洋中学校の誕生
昭和22年(1947年)3月には教育基本法・学校教育法が公布され、義務教育は9ケ年(小学校6ケ年・中学校3ケ年)となり、いわゆる六三制の学校体系が発足した。この改革を受けて、昭和23年(1948年)4月、掛塚町村組合立竜洋中学校の設置が認可され、掛塚・袖浦・十束・長野の各小学校の仮校舎を間借りする形で授業が始まった。竜洋中学校の誕生そのものの詳しい経緯は、r025本編(「竜洋中学校の誕生」節)に詳しいため、本ページでは接続にとどめる。
地震で傷つき、空襲で中断した学びの場が、占領期改革という全国的な制度転換を経て、竜洋中学校という新しい形で再び立ち上がったこと。それは、震災と戦争という二重の困難を乗り越えた、竜洋の人々の労苦の結晶であったといえる。
用語解説
- 東南海地震
- 昭和19年(1944年)12月7日、熊野灘を震源として発生した地震。静岡県西部から三重県にかけての太平洋沿岸に大きな被害をもたらしたとされる。戦時下の報道管制により、被害の実情は当時十分に知られなかった。
- 報道管制
- 戦時下、軍事上の理由から報道内容を政府・軍が統制すること。東南海地震の被害報道も厳しく制限されたとされる。
- 青空教室
- 校舎を失った学校が、屋外で授業を行った戦中・戦後の教育の形。教科書・学用品も不足する中で行われた。
- 墨塗り教科書
- 終戦直後、GHQの指令により、軍国主義的な記述などを墨で塗りつぶして使用した教科書。
- 六三制(ろくさんせい)
- 昭和22年(1947年)の学校教育法により発足した、小学校6ケ年・中学校3ケ年を義務教育とする学校体系。
むすび
東南海地震という自然災害と、空襲という人為の破壊が重なった時代を経て、竜洋町の学校教育は、占領期の教育改革という大きな転換を通じて再生していった。震災の被害の詳細は、報道管制もあって十分に記録が残っていない部分が多いが、その中でも学びの場を絶やすまいとした地域の労苦は、r025が記す竜洋中学校の「戦後の寺子屋教育」という表現に凝縮されている。
竜洋の学校の全体的な沿革は「竜洋の学び舎の歩み」(r025)を、天竜飛行場を抱えた戦時下の学童の記憶は「天竜飛行場と竜洋の学童」(r029)をあわせて読んでいただきたい。
参考資料
- 提供資料「四、近代教育の変遷」(原本61〜82頁相当、戦後教育の出発に関する記述は主に78〜80頁。出典:提供資料〈磐田市誌・掛塚町沿革誌等を典拠とする編纂物、書誌未確認〉)。
- 磐田物語「竜洋の学び舎の歩み」(r025)── 本ページの底本となる基礎資料。
- 磐田物語「東南海地震と戦時下の岩田村」(h007)── 磐田市岩田村の証言者の記憶を扱う関連記事。証言の重複を避けるため、本ページでは参照にとどめた。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が竜洋の学校という観点から再構成したものである。r025本文と重複する記述(竜洋中学校誕生の詳細な経緯)は簡潔な接続にとどめ、本記事では震災・占領期改革そのものに重心を置いた。竜洋町の被害の具体的な規模など、資料上確認できない事項は断定を避けて明記した。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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