失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 竜洋 / 教育史・戦時下 / 天竜飛行場と竜洋の学童

WARTIME | 竜洋・教育史 戦時下 ── 学びが動員に変わった時代

天竜飛行場と竜洋の学童
── 学徒動員・疎開・「勝つまでは」の記憶

「竜洋の学び舎の歩み」(r025)は、戦時下の教育について「学徒勤労動員」「天竜飛行場の戦災」の節でまとめて触れたが、竜洋町には天竜飛行場という具体的な戦争の記憶を抱えた学校教育の歴史がある。ここでは、昭和12年(1937年)の日中戦争開始以降、竜洋町の学校教育がどのように国策に組み込まれ、天竜飛行場のもとで学童がどのような動員・訓練・疎開を経験したかを、r025で圧縮された記述を掘り下げる形で整理する。
本ページは、r025の底本である提供資料「四、近代教育の変遷」のうち、戦時下の教育を扱う章(原本72〜77頁相当)を出発点に、r025が「戦時下の教育と竜洋町」として要約した記述をあらためて掘り下げて再構成したものである。天竜飛行場格納庫跡、松根油採取、女子生徒の軍事教練、飛松地区周辺の空襲被害、「勝つまでは……」という合言葉などは、いずれもr025・提供資料が既に触れている事実であり、本ページはこれを新しい資料で置き換えるのではなく、竜洋町という現地性に軸足を置いて改めて書き直したものである。断定できない被害の規模・件数は、r025同様「〜と伝えられる」と明記する。

戦時教育への転換(昭和12年〜)

昭和12年(1937年)9月、日中戦争が始まると、国民精神総動員運動が全国で展開され、教育の現場にも国策の影響が強く及ぶようになった。r025が紹介したとおり、当時の小学校の時間割では、1年生は週21時間、5〜6年生は男子28時間・女子30時間を学び、その半分近くを国語の学習に充てていたという。尋常小学校卒業後に高等小学校へ進学する子どもの割合は、この頃で約87パーセントに達したとされる。竜洋町の学校も、この全国的な流れの中に置かれていた。

大正期に広がりを見せた児童の心と自主性を尊重する教育観(r031で扱う遠州の学問の土壌とも通じる大正自由教育の気風)は、この戦時体制の中で次第に後退していく。教育の目的は、個々の児童の成長よりも、国策に沿った人材の育成へと、はっきりと傾いていった。

国民学校令と修身・軍事教練

昭和16年(1941年)の国民学校令により、竜洋町の尋常小学校・高等小学校は、竜洋町立掛塚国民学校をはじめとする国民学校(初等科6ケ年・高等科2ケ年)に改編された(r025参照)。国民学校という名称そのものが、教育を「皇国民の錬成」という国策目的に位置づけるものであった。

女子生徒に対しても軍事教練や行進訓練、一日入営などが行われ、ダンスや徒手体操に代わって薙刀や木銃を用いた教練が課されるようになった。昭和17年(1942年)7月からは英語の授業が中止され、実業学校の在学年限短縮も行われている。昭和18年(1943年)には中等学校令により、中学校・女学校・実業学校の修業年限が従来の5ケ年から4ケ年に短縮された。竜洋町の高等小学校・実業補習学校に通っていた生徒たちも、こうした全国的な制度変更の影響を直接受けたと考えられる。

綴方教育(赤い鳥)とその後退

大正7年(1918年)、鈴木三重吉の呼びかけで始まった「赤い鳥」の綴方教育(作文教育)や自由画教育運動は、児童の心と自主性を尊重しようとする大正期の教育観の一つの表れであり、r025は「竜洋町の学校にもその面影が残っているとされる」と記している。子どもたちが自分の言葉で暮らしや思いを綴るこの教育は、しかし、国民精神総動員運動が進む中で、次第に居場所を失っていった。

綴方教育がいつ、どのような形で竜洋町の学校から後退していったのか、その詳しい経緯は提供資料からは確認できない。ただし、全国的な傾向として、修身・国史・地理を中心とする国策教育が強化される中で、児童の自由な表現を重んじる教育が後景に退いていったことは、竜洋町も例外ではなかったと推測される。

学徒勤労動員のはじまり

戦争が長期化するにつれて、学校を挙げての勤労奉仕・勤労動員が拡大していった。r025が紹介したとおり、麦まきや芋掘りといった農作業の手伝いにとどまらず、水路を掘る土地改良工事、松の根を掘り出して松根油(ガソリンの代用)を採る作業まで、小学校の高学年児童が動員されるようになった。竜洋町は天竜川河口部の松林(防風林)が広がる地域であり、この松根油採取は、竜洋の子どもたちにとって身近な労働であったと考えられる。

男子生徒はさらに軍需工場や学校内の工場での勤労動員に従事させられ、農学校などの生徒の中には満蒙開拓青少年義勇軍に加わり、大陸へ渡った者もいたと記されている。昭和14年(1939年)には浜松師範学校に拓務科が設置され、青少年義勇軍への参加を後押しする体制が整えられた。竜洋町の生徒の中にも、こうした動員の対象となった者がいたと考えられるが、個々の生徒の氏名や人数までは提供資料からは確認できない。

天竜飛行場と竜洋町

竜洋町には明野陸軍飛行学校の天竜飛行場があった。r025が紹介したとおり、戦争末期には再三にわたり米軍機の攻撃目標とされ、爆弾投下や機銃掃射を受けたと伝えられる。現在も残る天竜飛行場格納庫跡は、その記憶を今に伝える数少ない戦争遺構の一つである。天竜川は、敵機が本土来襲時に進路を確認する目印にもなったとされ、地域の主婦たちは遠方まで買い出しに歩き、警防団による灯火管制や学童疎開も行われた。

軍事飛行場を抱える地域の学校では、児童・生徒が飛行場周辺の作業に動員されることも珍しくなかったとされるが、竜洋町の学童が天竜飛行場でどのような作業に従事したかの詳細は、提供資料からは確認できない。飛行場の存在そのものが、竜洋町の子どもたちの日常に、常に空襲の危険という緊張感をもたらしていたことは、想像に難くない。

飛松地区の空襲被害と「勝つまでは」

冒頭に紹介した「勝つまでは……」という言葉は、r025が「当時の合言葉として地域に残っていたと伝えられている」と記す一節である。この言葉は、耐乏生活を強いられながらも戦争の継続を求められた、当時の子どもたちと家庭の空気を端的に伝えている。

竜洋町域、特に天竜飛行場に近い地区では、空襲による被害があったと伝えられる。ただし、被害の具体的な件数・規模・日時といった詳細は、本ページで参照できる範囲の資料からは確認できておらず、断定を避ける。地域に伝わる記憶として、これ以上の具体的な検証には、当時を知る方々への聞き取りや、地域に残る一次資料の追加調査が必要である。

用語解説

国民精神総動員運動
昭和12年(1937年)の日中戦争開始後に始まった、国民の戦争協力を精神面から促す官製運動。教育現場にも強い影響を及ぼした。
国民学校(こくみんがっこう)
昭和16年(1941年)の国民学校令により設けられた学校。初等科6ケ年・高等科2ケ年。「皇国民の錬成」を教育目的に掲げた。
松根油(しょうこんゆ)
松の根を掘り出して採取した油。戦争末期、ガソリンの代用燃料として、児童・生徒も採取作業に動員された。
満蒙開拓青少年義勇軍
昭和期に満州(中国東北部)へ送られた青少年による開拓団。浜松師範学校拓務科などが参加を後押しした。
天竜飛行場格納庫跡
竜洋町にあった明野陸軍飛行学校天竜飛行場の格納庫の遺構。現在も残り、戦争の記憶を伝える。

むすび

竜洋町の学校教育は、昭和12年(1937年)の日中戦争開始から敗戦まで、松根油採取・軍事教練・学徒勤労動員という形で、子どもたちの日常を国策に組み込んでいった。天竜飛行場という軍事施設を抱える地域であったことは、この動員の重みを、他の地域よりも身近なものにしていたと考えられる。「勝つまでは」という言葉は、その重みを子どもたちに背負わせた時代の空気を、いまに伝えている。

軍国主義を美化するのではなく、当時の教育がどのように変質し、地域の子どもたちが何を強いられたのかを、資料の記述に沿って淡々と書き残すこと。それが、天竜飛行場と竜洋の学童の記憶を、いまの世代へ手渡す意味であると考える。

参考資料

  • 提供資料「四、近代教育の変遷」(原本61〜82頁相当、戦時下の教育に関する記述は主に72〜77頁。出典:提供資料〈磐田市誌・掛塚町沿革誌等を典拠とする編纂物、書誌未確認〉)。
  • 磐田物語「竜洋の学び舎の歩み」(r025)── 本ページの底本となる基礎資料。
  • 磐田物語「二十一世紀に伝えたい戦争体験」特集(h001〜h010)── 磐田市全体の戦争体験を扱う関連特集。竜洋町固有の記述は本ページ、磐田市総務部総務課発行資料に基づく市全体の証言はh特集を参照。

本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が竜洋町の戦時教育という観点から再構成したものである。r025本文と重複する記述は要約にとどめ、本記事では天竜飛行場という竜洋固有の現地性に重心を置いた。被害の具体的な規模・件数など、資料上確認できない事項は断定を避けて明記した。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

この地域の家・土地・空き家について

学び舎を失っても再建してきた竜洋の歩みのように、家や土地の記憶も次の世代へ引き継がれていきます。富士ヶ丘サービス株式会社では、磐田市内の家・土地・空き家の整理について、地域の歩みも大切にしながらご相談をお受けしています。

家・土地・空き家の整理について相談する 竜洋・磐田市の家・土地・空き家相談はこちらから