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竜洋地区の歴史

掛塚・袖浦・十束|竜洋を形づくった村と集落の歩み

昭和30年(1955年)の竜洋町誕生以前、この地は「掛塚町」「袖浦村」「十束村」という異なる社会背景をもつ3つの町村から構成されていた。天竜川河口という一つの自然地理的境界の中にありながら、商業・漁業・製塩・開拓農業といった多面的な営みを培ってきた集落の歩みを、対応表とともに詳しく整理する。

3町村の歴史的性格と生活圏

天竜川河口東岸にへばりつくように発展した「掛塚町」は、古くから廻船の湊として栄えた中世以来の商業都市である。江戸期から明治にかけて、天竜川上流から流される杉や檜などの木材を江戸へと運ぶ「遠州の小江戸」としてその名は全国に知られていた。港には多くの廻船問屋が立ち並び、伊豆石を用いた耐火性の蔵や、豪華絢爛な掛塚まつりの山車に象徴される、高度に洗練された町人文化を育んだ。

一方、海岸沿いに東西に伸びる「袖浦村」は、厳しい潮風と砂地という過酷な自然条件に適応した暮らしが営まれていた。古くから遠州灘の塩害と向き合いながら、砂浜での製塩業(十日塩など)を発達させ、後世には砂地を活かした独自の砂丘農業を展開した。さらに、大の浦の名残をとどめる平坦な後背地を擁する「十束村」は、天竜川旧流路や湿地帯の堆積土を粘り強く耕し、近世新田開発によって美田へと変貌させていった、典型的な開拓農村であった。

集落名と現在の大字・地区の対照

竜洋地区の集落名には、かつての自然景観や水系の記憶を宿した名前が多い。例えば、袖浦村に属した「海老島」や「北島」などの「島」が付く地名は、かつて仂僧川やその他の支流によって隔てられていた微高地の砂洲を意味している。また、「塩新田」や「掛塚新田」などの「新田」は、江戸期から明治にかけて砂丘や湿地の干拓が進められた証拠である。これらの古い集落は、明治22年(1889年)の町村制施行による大整理を経て近代的な「大字」として再編され、さらに昭和の合併へと受け継がれていった。

旧町村名 大字・集落名 現在の見方・位置づけ 歴史的な特徴
掛塚町 掛塚、萱野新田、掛塚新田 磐田市竜洋掛塚・駒場周辺 天竜川河口の商業港。木材・廻船問屋の街。
袖浦村 岡、海老島、駒場、塩新田、中野(一部) 磐田市竜洋岡・竜洋海老島周辺 砂丘地帯の製塩業と、防潮林・砂地農業の歩み。
十束村 平松、中島、金洗、川袋、十郎島、堀之内 磐田市竜洋平松・竜洋中島周辺 仂僧川水系と天竜川旧流路に沿った近世新田開拓農村。

生活共同体としての歩み

これら3町村は、それぞれ生業や生活の力点は異なっていたが、広大な天竜川河口の治水、遠州灘の防潮対策、そして水害時の相互扶助においては、不可分の生活共同体であった。かつてそれぞれの村に築かれた地蔵や、水神を祀る社寺は、厳しい自然災害から人々の生命と農地を守るための祈りと合議の場でもあった。明治・大正期の激動する町村沿革を経ても、地域の人々が築き上げてきた水辺の知恵は、昭和の合併による「竜洋町」の結実へとしっかりと繋がっていたのである。

この記事で扱う範囲

本項では、合併前の掛塚町、袖浦村、十束村の歴史的出自と生業の違い、町村制による各大字の編入の歴史、そして現在の大字名との対応関係を示す整理表を作成しました。

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参考資料

  • 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)3月発行相当資料
  • 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料
  • 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺

本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに磐田物語用に再構成したものです。