失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

竜洋地区の歴史

室町時代以降の竜洋|戦乱・支配・村のまとまり

太古の巨大な汽水湖「大の浦」が徐々に埋まり、湿田へと姿を変える中世以降、この河口低地は多様な政治的支配の波に洗われることとなった。京都の有力社寺の社領となった中世荘園「池田荘」の時代から、今川氏、武田氏、徳川氏の興亡が激しく交差した戦国期、そして中泉代官所の統治を受けた江戸幕府直轄地(天領)の時代まで、その変遷をたどる。

中世荘園「池田荘」と掛塚港の起源

平安時代末期から鎌倉期にかけて、この地域は天竜川東岸の広大な荘園「池田荘」の一部を構成していた。池田荘は京都の松尾神社の社領(神領)として寄進された経済的基盤であり、当時この地域で最も重要であった天竜川の渡船権や、水辺の利権を握っていた。現在の竜洋地区にまでその支配は及び、当時の記録には、天竜川を運ばれる木材や物資の中継地として、早くも水辺の集落が形成されつつあった状況がうかがえる。

また、室町時代から戦国期にかけては、天竜川の流れの移動に伴い、河口部に「掛塚湊」が成立した。当時の掛塚は、単なる地方の漁村ではなく、京都や鎌倉、伊勢などと遠州東部を結ぶ海上流通の要衝として頭角を現し始めた。戦乱の時代にあって、物資の集散と舟の通行権をめぐる支配が、中世領主たちの間で激しく争われたのである。

戦国期の覇権争いと徳川家康の鷹狩り

戦国時代、遠江国は今川氏の勢力下にあったが、桶狭間の戦い以降、武田信玄の西上作戦と徳川家康による奪還戦の最前線となった。この間、掛塚や袖浦周辺の諸集落も支配者が幾度も入れ替わる不安定な状況に置かれた。元亀・天正期(1570〜1590年代)には、徳川家康が遠江の平定を進め、掛塚を自らの軍事運送の要衝および経済的な要地として保護した。この時期、すでにこの周辺には多くの定住集落が確立していた。

安土桃山時代から江戸初期にかけて、徳川家康はたびたび大の浦周辺で鷹狩りを催したことが伝えられている。現在の磐田市内に残る「御殿」という地名は、家康が狩猟の折に滞在した宿館の跡とされ、当時大の浦が広大な浅い湿地帯であり、水鳥の生息する狩猟の適地であったことを如実に物語っている。

江戸期の天領支配と中泉代官所

江戸時代に入ると、竜洋地区の多くの村々は、幕府直轄の「天領」として配置された。この地は、天竜川河口という重要水路であり、かつ海防・物資の出入港としての掛塚を抱える極めてセンシティブな地域であったためである。地域の行政や検地、年貢の徴収は、現在の磐田市中泉に置かれた「中泉代官所」の支配下で行われた。

江戸中期の宝暦9年(1759年)から文化13年(1816年)にかけては、大名領として井上河内守の支配下に入った時期もあったが、文化14年(1817年)以降は再び幕府の直轄地に戻り、中泉代官所の支配が明治維新まで続いた。近世の領主の入れ替わりと厳しい管理の中でも、地域の人々は仂僧川の灌漑用水の共同管理や、砂地を防ぐための防風松林の維持など、村同士が強くまとまり、合議によって日々の暮らしを守る確固たる村落共同体を築き上げていたのである。

この記事で扱う範囲

本項では、松尾神社の社領「池田荘」の解説、室町・戦国期の支配勢力の変遷、徳川家康の鷹狩りと周辺地形、そして江戸期の中泉代官所による天領統治と、村々の共同管理のあり方について叙述しました。

竜洋地区の家・土地・空き家の整理について相談する

地域の歴史や土地の成り立ちをふまえながら、相続した家、空き家、土地の整理についてご相談をお受けしています。

参考資料

  • 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)3月発行相当資料
  • 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料
  • 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺

本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに磐田物語用に再構成したものです。