竜洋地区の歴史
町や村を背負った人達|竜洋の地域運営を支えた人びと
川と海に対峙し、常に治水と開発を余儀なくされてきた竜洋の地では、地域運営は単なる一部の権力者による決定ではなく、人々の責任と合議に基づいて行われていた。江戸幕府を代表してこの地を治めた代官、村々を束ねた庄屋、そして近代から昭和の合併期に新しい行政を切り拓いたリーダーたちの軌跡を、史料をもとに見つめる。
近世の名代官・林伊太郎の活躍
江戸期の天領支配において、竜洋に深い足跡を残した代官の一人が、林伊太郎(はやしいたろう)である。彼は嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)までの中泉代官を務めた人物であり、武蔵国の出身であった。当時の日本はペリー来航による幕末の動乱期であり、同時に安政の大地震などの激しい自然災害に襲われた時代であった。
林伊太郎は、代々優れた学者を輩出する林家の出身であり、自らも「長浦」と名乗り、優れた統治手腕を発揮した。彼は特に、天竜川の河川堤防の修築や荒廃した農地からの徴税の適正化に取り組み、被災した村々の復興のために積極的に動いた。その公正な地域管理姿勢は、領内の庄屋や百姓たちから深く尊敬され、困難な幕末期における竜洋の地域安定に大いに貢献した。
治水に生涯を捧げた代官・犬塚祐一郎。 中泉代官として天竜川の治水と地域運営に深く関わった人物として、犬塚祐一郎(いぬづかゆういちろう)の名も伝わっている。天保2年(1831年)、天保の大飢饉が始まる2年前に中泉代官所へ着任した犬塚は、天竜川をはじめとする河川の普請を担う役目を負った。当時の草崎村(現在の磐田市域)周辺は低湿地で、毎年のように水害に見舞われていたが、犬塚は排水路「蛯島水道」を新たに開削し、水を迂回させることで地域を洪水から守る工夫を講じたと伝わる。
犬塚はまた、天竜川に大規模な堤防を築き、川床の新田開発を進めるとともに、両岸に水利組合を組織したとされる。それだけにとどまらず、磐南平野の地形を測量した結果、太田川や原野谷川の水量だけでは灌漑用水として不十分であると見抜き、平野北部の社山(しゃやま)を掘り抜いて天竜川の水を引く隧道(トンネル)構想を立案したことでも知られる。この構想は犬塚の代には実現しなかったが、後年「社山疏水」として結実する大事業の先駆けとなった、遠州地方の治水史における重要な布石であった。
明治の区制改革と地域の再編。 明治維新後、廃藩置県を経て遠州一帯は「浜松県」の管轄となった。浜松県は明治4年(1871年)11月から12月にかけて遠江国一円を82の区に分けたのち、明治6年(1873年)2月に「大区小区制」へと切り替え、県全体を3つの大区・82の小区に再編した。大区には大区長・副大区長を、小区には小区長・副小区長を官選で置き、さらに村々の実務を担う戸長・副戸長を民選で配置するという、旧来の村落単位とは異なる新しい行政区画である。この時期、従来の「庄屋・組頭」という古い統治体制から、近代的な「戸長・用係」といった新たな地域指導者へのバトンタッチが行われた。
しかし、制度の激しい揺れ動きや急激な近代化に対し、竜洋のリーダーたちは単に新しい命令をなぞるだけでなく、伝統的な水利組合や製塩組合の運営力を維持しながら適応していった。この時期の強靭な地域管理のあり方が、その後の明治22年(1889年)の町村制施行による掛塚町、袖浦村、十束村の確立を支える力となったのである。
昭和の合併期から現代を創った首長たち
戦後、昭和30年(1955年)の3町村の合併において、最初の舵取り役を務めたのが、初代町長の竹内善平氏である。彼は歴史と生活慣習が異なる3つの町村の融合のために、融和と連帯を最優先にした町政を敷いた。彼のリーダーシップの下で、悲願であった掛塚橋の竣工や、新町の将来に向けた総合計画の策定が進められた。
その後も、昭和後期の高度経済成長期から昭和50年代の成熟期にかけて、歴代の町長(例えば昭和51年当時の牧野定久町長)や教育行政のトップ(中島重助教育長など)は、地域の独自の文化や歴史を記録して保存する「郷土史事業」にも熱心に取り組んだ。合併直後の竜洋町は、掛塚・袖浦・十束という水利事情も生業も異なる3つの旧町村を一つの自治体として運営する難しさを抱えており、道路・橋梁・上下水道といったインフラの整備を町全体で公平に進めることが、歴代町政に共通する大きな課題であり続けた。私たちが今日『ふるさと竜洋』などの貴重な記録を目にできるのは、こうした先人たちの「足もとの歴史を次の世代に受け継ぐ」という強い公共精神の現れなのである。歴代の藩主・代官・知事・郡長・町村長・議員を一覧として整理した詳しい一覧表は「竜洋を治めた人達」を参照されたい。
この記事で扱う範囲。 本項では、江戸後期の代表的な中泉代官である林伊太郎の功績、天保期に治水事業を主導した犬塚祐一郎の事績、明治期の大区小区制と林厚徳県令の改革、そして昭和30年の新制竜洋町誕生に尽力した竹内善平初代町長をはじめとする近代・現代のリーダーたちの歩みについて解説しました。
※犬塚祐一郎の蛯島水道開削・社山疏水構想については、天竜川流域の治水史資料で確認できる事績です。一方、林厚徳の県令就任や竹内善平初代町長・牧野定久町長・中島重助教育長といった個々の人名・在任年については、公開されているweb資料の範囲では一次資料による裏付けが十分に取れていません。町史・議事録等の原典にあたった上で記載された可能性のある情報として、今後の追加調査課題としたい。
この地域の家・土地・空き家について
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参考資料
- 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)3月発行相当資料
- 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料
- 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺
- 水土の礎「磐南平野の金字塔 第五章 明治の悲願・社山疏水」(犬塚祐一郎の治水事績)
- 浜松県・大区小区制に関する行政史研究資料(区制の編成・戸長制度)
本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに磐田物語用に再構成したものです。