竜洋地区の歴史
天竜川の変遷と竜洋|川の流れが土地をつくり、暮らしを変えた
天竜川は「竜洋町の母」と呼ばれる。しかし、その慈愛に満ちた母は、同時に幾度となく牙をむく「暴れ天竜」でもあった。太古から幾筋にも分かれて流れ、氾濫するたびに流路を変えた大河の歴史は、そのまま竜洋の農地形成の歴史であり、川の流れに翻弄されながらもこれを克服しようと戦い続けた人々の物語そのものである。
上古の天竜川と「西遷」の歴史
古代から中世にかけての天竜川は、現在のように一本に定まった流路ではなく、三方原台地と磐田原台地の間に広がる広大な低地帯を、縦横無尽に蛇行しながら流れていた。本流の位置は極めて不定期であり、洪水が起きるたびに新川が誕生し、古い川が干上がった。歴史的および地形的なデータによれば、天竜川の流れは大きく分けて3つの変遷パターンをたどっている。
最初の段階は、現在の浜松市東部を流れる馬込川に連なる「麁玉川(あらたまがわ)」の流路であった。天平宝字5年(761年)の『続日本紀』には、遠江国麁玉川の堤防が300余丈(約900メートル)にわたって決壊し、のべ30万人以上の役夫を投じて大規模な修築を行った旨が記録されている。これは奈良時代における天竜川の猛威と本流の位置を示す極めて貴重な証拠である。その後、流れは次第に東へと移り、第2の段階である「仂僧川(みよそうがわ)」を中心とする流路へとシフトした。そして戦国期から江戸期にかけて、再び本流が西側へ移動するいわゆる「西遷(せいせん)」を経て、現在の安定した一本の本流へと収束していくのである。
氾濫原の開拓と砂との世紀の戦い
仂僧川周辺の低地は、天竜川の堆積土によって非常に肥沃な土壌であったが、同時に極めて水害に脆弱であった。特に中野(旧天竜村)から南下し、現在の竜洋平野の中央部を通って東の太田川へと至る海抜2メートル以下の広大な低湿地帯は、洪水のたびに濁流に飲み込まれた。人々はこの泥河の中に「十郎島」や「川袋」といった、周囲より一段高い自然堤防の洲を選び、小規模な輪中(わじゅう)集落を構築して身を守った。
さらに、竜洋の暮らしを脅かしたのは水害だけではない。冬から春にかけて遠州灘から吹き付ける強烈な北西の季節風(遠州のからっ風)は、乾燥した河原や砂丘の砂を巻き上げ、容赦なく田畑や家屋を埋め尽くした(飛砂被害)。これに対し、近世の庄屋や百姓たちは自発的に結束し、天竜川の堤防沿いや海岸線沿いに数万本もの「黒松」を植林し続けた。この黒松林の防風・防潮堤こそが、現在も美しい「白砂青松」の景観として海岸線に伸びる松林の祖形であり、水と砂に対する人間の知恵と執念の結晶である。
川がもたらした繁栄と港湾の衰退
天竜川は災害の元凶であったが、同時にこの地に計り知れない富をもたらした。天竜川上流の信州や山香(佐久間など)から伐り出された膨大な木材は、天竜川の急流を利用して筏(いかだ)に組まれ、河口の掛塚まで流された。掛塚に集積された木材は、ここで大型の廻船に移し替えられ、江戸へと海上輸送されたのである。この木材中継貿易によって掛塚湊は栄え、廻船問屋が豪勢な蔵を建て並べる「小江戸」としての繁栄を極めた。
しかし、明治以降になると、上流での近代的な砂防ダムの建設や鉄道網の敷設、そして天竜川河口部の土砂堆積の進行により、港湾としての掛塚湊は次第にその機能を失っていった。しかし、暴れ川を治め、木材を通じて全国と繋がった竜洋の人々の開拓精神と強靭な意志は、昭和の合併や近代農業の開発へと確実に引き継がれ、現在の磐田市竜洋地区の豊かな暮らしのバックボーンとなっているのである。
この記事で扱う範囲
本項では、天竜川の形成期から古代麁玉川の決壊記録(761年)、仂僧川流路から現在の流路への変遷、十郎島や川袋などの輪中集落の立地、そして黒松の防風林による砂との闘いや掛塚湊の木材流通への影響を網羅的に叙述しました。
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参考資料
- 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)3月発行相当資料
- 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料
- 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺
本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに磐田物語用に再構成したものです。