『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)には、本文の理解を助ける挿入図がいくつも収められている。そのうち二枚 ──「見附宿御伝馬自林絵図」と「見付宿御普請所及ビ自普請所絵図」── は、いずれも街道沿いの家並みではなく、宿の周縁を描いたものである。林はどこまでが幕府のもので、どこからが村のものか。橋と堤は、どこまでを幕府が直し、どこからを宿が直すのか。二枚に共通するのは、境界と負担区分を明示するという目的である。本稿ではこの二枚を、絵として眺めるのではなく、文書として読む。
- 自林絵図は、御伝馬林・大久保御林・向笠御林といった官林と、加茂村自林などの村持林を描き分ける。
- あわせて定納畑・午御改原畑・岩井野といった宿の耕地と秣場、街道沿いの寺社の位置を記す。
- 普請絵図は、幕府の費用で直す御普請所と、宿の費用で直す自普請所を橋・堤・圦樋ごとに書き分ける。
- いずれも係争や届出のために作られた実務の図であり、宿の空間を権利と義務の面から可視化している。
一枚目 ── 見附宿御伝馬自林絵図
一枚目は、宿の北側に広がる林と畑を描いた絵図である。街道は図の下方を東西に走り、その北に広大な林野が広がる。中央に大きく「御伝馬林」と記され、その西に「大久保御林」、東に「向笠御林」が置かれる。さらに西寄りには「加茂村自林」がいくつも点在し、外縁には「加茂村畑」「中泉村畑」「一言村畑」が接している。東の端には「山岩井野」が見える。
ここで重要なのが「御林」と「自林」の区別である。御林は幕府の管理する官有林、自林は村や百姓が持つ林をいう。見付宿のすがたと戸口で見たとおり、宿の東北に続く岩井野は宿の役馬のための秣場(採草地)であり、あわせて御伝馬林として無税の百姓持林も認められていた。馬を養う草と、燃料や用材となる木 ── 宿が伝馬という公役を果たすためには、街道沿いの家々だけでなく、この北の林野が不可欠であった。絵図が林の帰属を一つひとつ書き分けているのは、それが宿の経営に直結する資源だったからである。
畑の呼び分けも見える。「定納畑」と「午御改原畑」が繰り返し記される。定納畑は今川氏の朱印以来の古い畑で永高(永楽銭建て)で年貢を計算し、午御改原畑は延宝6年(1678年)検地の新しい畑で米納であった。同じ畑でも年貢のかかり方が違うため、絵図の上でも区別して描く必要があったわけである。年貢のしくみは中泉代官と見付宿の年貢で述べたとおりである。
街道沿いには寺社が並ぶ。西から国分寺、八幡宮社、護世寺、西光寺、蓮光寺、玄妙寺、見性寺、そして東に惣社大明神山、大見寺、金剛寺、慶岩寺、天神社、地蔵堂 ── 十一ヶ寺と二社で一覧にした寺社が、そのまま図上に配置されている。表と裏、街道と林野が一枚に収まっているのがこの絵図の値打ちである。
なお同書は、見付宿最古の絵図として寛永18年(1641年)の「岩井野秣場出入御裁件御裏書絵図」を挙げている。「出入」とは訴訟のことで、岩井野の秣場をめぐる争いの裁許にあたって作られ、裁許状の裏に描かれた絵図である。宿の周縁の絵図が残っているのは、そこが争いの場であったからにほかならない。誰の草刈場か、どこまでが自分の林か ── その線を確定するために、人は絵図を描いたのである。
二枚目 ── 見付宿御普請所及ビ自普請所絵図。 二枚目は、宿を流れる川と、そこに架かる橋や堤を描いた絵図である。こちらの主題は所有ではなく、修繕の負担区分である。
火事・洪水・祭礼で述べたとおり、宿内の土木工事には幕府の費用で行う「御普請所」と、宿の費用で行う「自普請所」の区別があった。この絵図は、その区別を場所ごとに書き込んでいる。読み取れる主な注記を挙げる。
| 区分 | 場所と構造物(絵図の注記による) |
|---|---|
| 御普請所 (幕府負担) | 字中川 ── 板橋 長7間半・幅3間、高欄付 |
| 字東坂下 ── 土橋 長2間半・幅2間半 | |
| 字風破圦 ── 圦樋 高3尺4寸・横3尺・長4間 | |
| 自普請所 (宿負担) | 字馬場前 ── 水道板橋 長4間・幅4尺 |
| 坂下 ── 水道板橋 長3間・幅5尺 | |
| そのほか | 中川通悪水吐所、中川通堤往還、通堤 長376間3尺・巾4尺・高6尺、豊田郡西瀬新田、字一ノ久保の水道板橋(上置の御普請を下される旨の注記あり) |
出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』所載「見付宿御普請所及ビ自普請所絵図」の書き込み。複写資料からの判読であり、一部の注記は読み取りにくい。数値は絵図に記された寸法をそのまま示した。
この一覧から見えてくるのは、負担区分の基準である。街道の本体にかかる中川の板橋や東坂下の土橋 ── つまり東海道の通行そのものを支える構造物 ── は御普請所、すなわち幕府が費用を持つ。一方、馬場前や坂下の「水道板橋」のような、宿内の生活用水路に架かる小さな橋は自普請所、宿の負担である。街道の便益は幕府の責任、宿の内側の暮らしは宿の責任 ── 大づかみにいえば、そういう線引きであったと読める。ただしこれは絵図の記載から導いた解釈であって、同書がこの原則を明文で述べているわけではない。
絵図には年代を示す書き込みも見える。天保10亥年(1839年)6月に役人が中泉(代官所)へ差し出したこと、また文政13丑年(1830年)の往還に関する注記である。中泉代官と見付宿の年貢で見たとおり、宿の地方行政は中泉代官所の管轄であった。普請の届出もまた中泉へ上げられていたのである。
絵図という文書。 二枚を並べて気づくのは、どちらも「線」を引くための図だということである。一枚目は林と畑の帰属の線を、二枚目は修繕負担の線を引く。江戸時代の宿場は、街道沿いに家が並んでいるという単純な空間ではなかった。誰の土地か、どの年貢がかかるか、誰が直すか ── 幾重もの線が重なった空間だったのである。
そして線は、争いがあるところに引かれる。最古の絵図が秣場の訴訟の裁許図であったこと、普請の絵図が代官所への届出であったことは、いずれもそれを示している。火事・洪水・祭礼で見た拝殿踊の順争いも、小字・地名資料に並ぶ細かな小字も、根は同じであろう。人が土地を使い分け、負担を分け合って暮らすかぎり、線は必要とされ、そして記録される。二枚の絵図は、宿場町がそうした取り決めの積み重ねの上に成り立っていたことを、絵のかたちで残しているのである。
更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第12ページ)。