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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(6)

遠江の宿駅はどう移り変わったか ── 平安から江戸への駅名変遷表を読む

猪鼻、栗石、匹摩、橋本、池田 ── 遠江を横切る道の駅は、時代ごとに名前も場所も入れ替わった。そのなかで一つだけ、名を変えながら同じ土地に立ち続けた駅がある。

『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)は第一章の末尾に「遠江宿駅変遷表」を掲げている。『日本経済史辞典』にもとづくとして、平安・鎌倉・吉野・室町・江戸の五時代について、遠江国内に置かれた宿駅の名を並べた一覧である。この一枚の表は、東海道という道が固定された一本の線ではなく、時代ごとに結び目を組み替えながら続いてきたものであることを、端的に示している。本稿ではこの表を読み、そのなかで見付がどの位置を占めるのかを確かめる。

本稿の要点
  • 遠江の宿駅は時代ごとに大きく入れ替わり、平安期の猪鼻・栗石・匹摩などは中世に姿を消した。
  • 橋本・池田・菊川・懸河は鎌倉から室町にかけて繰り返し現れる、中世遠江の主要な駅である。
  • 遠江国府(見付)は五時代すべてに現れ、名を変えながら同じ土地が駅であり続けた。
  • 江戸時代に東海道の宿は白須賀・新居・舞坂・浜松・見付・袋井・掛川・日坂・金谷の9宿に固定された。

五時代の駅名一覧

同書の表を、読みやすいように横組みに改めて示す。配列は原表にしたがい、おおむね西から東の順である。

時代遠江国内の宿駅
平安時代猪鼻・拓築・栗石・匹摩・遠江国府・豊田・横尾・初倉
鎌倉時代橋本・引馬・池田・遠江国府・懸河・菊川・初倉
吉野時代橋本・池田・懸川・菊川
室町時代橋本・匹馬・池田・国府・袋井・懸河・西坂・菊川・鎌塚
江戸時代白須賀・新居・舞坂・浜松・見付・袋井・掛川・日坂・金谷

出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』所載「遠江宿駅変遷表」(『日本経済史辞典』による)。太字は本稿で強調した。

消えた駅、残った駅。 この表を縦に眺めると、駅の入れ替わりの激しさに驚かされる。平安時代に見える猪鼻・拓築・栗石・豊田・横尾は、鎌倉時代の欄には現れない。逆に鎌倉時代に登場する橋本・引馬・懸河・菊川は、平安の欄にはない。道そのものが動いたのか、駅の呼び名が変わったのか、あるいは記録の残り方の差なのか ── 表だけからは断定できないが、律令制の駅家(うまや)が衰え、中世の宿が新たに生まれてくる過程が、名前の入れ替わりとして現れているとみることはできる。

同書は第一章で、大化改新後の駅制について「遠江分は国府(見付)と猪鼻(大井川南岸初倉村)の五駅であった」とし、諸国連絡の街道が整備されて三十里(当時は六町一里)ごとに一駅が設けられ、駅馬十疋を常備して逓送に従わせたと述べている。平安中期の『更級日記』が「まつさとの渡り」の困難を伝え、後一条天皇の御代に上総から京へ帰る旅が三ヶ月を要したという同書の記述も、この時代の駅がいかに心細い存在であったかを物語る。

他方、中世を通じて安定して現れるのが橋本・池田・菊川・懸河である。とりわけ池田は、天竜川の渡しを控えた要地として鎌倉・吉野・室町の三時代すべてに名を残す。池田の渡しと宿については池田宿の賑わいと本陣の記憶に詳しい。室町時代の欄に袋井・鎌塚・西坂といった新顔が加わるのは、街道の結び目がさらに細かく刻まれていった結果であろう。

名を変えて残った土地 ── 国府から見付へ。 この表でもっとも注目されるのは、五時代すべてに現れる駅がただ一つあることである。平安・鎌倉の「遠江国府」、室町の「国府」、そして江戸の「見付」── 原表ではこれらの欄に同じ符号が付され、同一の地点であることが示されている。国衙の所在地として道の結節点となり、国府の機能が失われたのちも宿としてその位置を保ち、近世には東海道二十八番の宿場町となる。名前は三度変わったが、土地は動かなかったのである。

ではなぜこの土地だけが残ったのか。同書は第一章で、見付が「東海道のほぼ中央に位し天竜川東岸に臨んだその形勝の位置」にあり、上古以来長く遠江の政治文教の中心地であったことを繰り返し強調している。天竜川という大河をひかえた東岸の台地の縁 ── その地理的条件は、律令の駅制でも、中世の宿でも、近世の宿駅制度でも、等しく意味を持ち続けた。制度が三度作り替えられても、地形が課す条件は変わらなかったということである。

ただし「国府=見付」という等式には注意も要る。同書自身、遠江国府の政庁がこの地のどこにあったかは「遺憾ながら決定し難い」とし、町の南端の国府八幡宮(府八幡宮)の地域とする説が有力である、と留保つきで述べている。国府の所在地をめぐる議論は今日も続いており、本稿もこれを断定しない。国府論の現況は見付の成り立ち、府八幡宮と国府の関係は遠江国分寺跡と、古代磐田のはじまりもあわせて参照されたい。

江戸時代 ── 九つの宿への固定。 江戸時代の欄に並ぶ9宿は、幕府の宿駅制度によって定められたものである。同書によれば、慶長6年(1601年)に東海道の各宿へ伝馬の定めが下され、見付宿もこのとき正式に宿駅となった。その後、宿間の距離が長すぎる箇所に中間宿が新設され、見付の東の袋井宿は見付・掛川両宿の中間に新設されたものであると同書は記す。見付と掛川に御伝馬継立の命令があったのは慶長8年(1603年)3月であった。

時代ごとに増えたり消えたりしてきた駅が、江戸時代に9つで固定される ── この安定は、幕府が街道を制度として掌握したことの結果であった。そして明治22年(1889年)の東海道線開通によって、その安定した秩序もまた終わりを迎える。同書の自序が「鉄道の開通のため沿線から引放され、ために町勢また衰頽」と書くとおりである。宿駅の変遷表は、実はまだ終わっていない表なのだと言ってもよい。宿の成立事情は見付宿の成立と宿場範囲、宿場町としての見付の全体像は見付宿のすがたと戸口で扱っている。

更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第6ページ)。

参考資料

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