LOCAL HISTORY | 福田・豊浜・於保の人物史
福田町『郷土の先覚者たち』を読む
── 海と砂地と教育を支えた人びと
この資料について
『郷土の先覚者たち 第一集』は、福田町教育委員会が昭和55年(1980年)11月15日に発行した人物史の冊子である。編集にあたったのは福田町史編纂委員会で、巻頭には福田町長・寺田徳一の序、教育長・木野孫六の発刊のあいさつが置かれ、巻末は編集委員長・加藤正のあとがきで結ばれている。発刊のあいさつには、町制施行25周年の記念事業のひとつとして、各分野の人物を選んで編んだという経緯が記されている。
取り上げられているのは、福田の発展に関わった11の項目の人びとである。教育に力を注いだ人、海岸の砂を相手に土地を守った人、織物や温室栽培という新しい産業に挑んだ人、戦後の自治を担った人。一人ひとりの肩書きはばらばらに見えるが、並べてみると、遠州灘という海と、太田川がはこぶ砂地のうえで暮らしを立ててきた村の姿が浮かんでくる。福田・豊浜・於保という現在の磐田市南部を考えるとき、この冊子は地域の記憶への入口になる。
掲載された11人
冊子の目次にそって、11の項目を一覧にした。見出しは資料の表現を尊重しつつ、主題が伝わるように整えている。人名の表記には判読・確認を要するものがあり、その旨を各所に記した。
大庭八郎助
郷土の教育をもり上げた人
明治5年(1872年)の学制発布より前から、福田の村で寺子屋を開いていた人物。手本を自ら書き、読み書きやそろばんを教え、月並みの清書を貼り出して子どもの励みにしたという。学校制度が整う前の地域の学びを、村のなかで支えていた。
早苗庵知碩
郷土の偉人・俳人
中野(現在の磐田市福田中野)の俳人。姓は加藤、名は多蔭。中野公民館前に句碑が残る。柿園嵐牛に学び、独学で芭蕉の流れをくむ俳諧を究めて数百人を育てた。海辺の村に根づいた在村文芸を体現する。シリーズ親見出しの「知何」は出典では「知碩(ちせき)」。
寺田彦太郎・彦八郎
ならい波・幕末の庄屋
幕末の福田庄屋。彦太郎(号・観海)は港口の掘削などに尽くし藍綬褒章を受けた。子の彦八郎は仿僧川で養魚を創始し、のちの中遠の養鰻業の源流とされる。資料が「ならい波」と呼ぶ遠州灘の荒波と向き合った家である。
大竹萬吉(御隠居様)
漢学一筋に生きた東古様の神隠居様
本名は大竹温、三代目萬吉。漢学を志して各地に師を訪ね、小野湖山の門に学んだ在村の学者。晩年は郷里福田に松籟軒を建てて子弟を指導した。学校とは別の系統で、村に深い学問の素養があったことを伝える。人名の読みなどに[要確認]。
伊藤五郎
荒波から土地を守った砂防功労者
豊浜の漁夫。安政5年(1858年)生まれ。藁を差し込んで飛砂を吹き寄せ、村人の力で砂防堤を育てて松を植えた。守った砂地は村人に平等に分けたという。投網漁を好み、子どもたちに慕われた人物として像が残る。
寺田市十
別珍織物を生み出す
文久3年(1863年)生まれ。太田川に近い福田で「丸三工場」を起こし、剪毛機械の輸入に財を投じて別珍(綿ビロード)を生み出した。「別珍」の名もこのとき付いたと伝わる。福田の織物の出発点に立つ産業の先覚者。
川島直次郎
旧於保地区の名村長
山梨に生まれ、明治27年(1894年)に川島家へ婿養子として遠州へ。明治34年(1901年)から長く於保村長を務め、教育の充実や農業改良、信用組合の設立に尽くした。村が自分たちで物事を決めていた時代の自治を担った人物。
伊藤真一・次平・孝作・照作
豊浜における温室栽培の創始者
豊浜村(現在の福田町豊浜)で、ガラス温室による栽培をはじめた4人。水はけのよい砂地という条件を生かし、露地から施設園芸へと農のかたちを広げた。冊子の写真には伊藤真一・次平・孝作・照作の名がある。
寺田范三
教育一筋に生きた努力の人
明治24年(1891年)豊浜村生まれ。代用教員から学び続け、東京高等師範学校・京都帝国大学を経て、北京留学ののち文学博士となった努力の人。卒業証書などには「堀江范三」とあり、姓の表記には[要確認]が残る。
伊藤重平
シラスを追って
明治41年(1908年)生まれ。地引網の限界を越えようと動力船トロールに挑み、御前崎へ大型網を注文して「二はい引き」を確立した。シラス干しの工夫や流通にも踏み込み、いまの福田のシラス漁の型をつくった漁業の先覚者。
大竹十郎
戦後初代の町長
明治21年(1888年)生まれ。東京帝国大学法学部から内務官僚の道を歩み、戦後、福田町初代町長となった。中央公民館の建設、都市計画、上水道、於保村との合併など、新しい福田町の地方自治の土台づくりに関わった。
ここからは、11人を分野ごとに読み解いていく。一人を称えて終わるのではなく、それぞれの仕事が、海と砂地のまちのどんな課題と結びついていたのかを考えたい。
教育と学問
この冊子でいちばん多く登場するのが、教育と学問に関わる人びとである。大庭八郎助の寺子屋は、明治5年(1872年)の学制発布より前から村にあった。学校の制度がまだない時代に、読み書きやそろばんを教える場を、地域の側が自分たちで用意していたことになる。寺田范三は、学校が根づいていく時期に教育へ生涯を注いだ人物として描かれる。
学びの形はひとつではなかった。「萬吉様の御隠居様」と呼ばれた大竹萬吉[要確認]は漢学を究め、漢詩をよくした。早苗庵知碩のように、独学で俳諧を究めて地域に教えた文芸の人もいた。漁業や農業で暮らす海辺の村に、寺子屋・漢学・俳諧がそれぞれの形で根を下ろしていた。福田の教育は、学校制度の整備とともに語られがちだが、その手前に、地域が人を育てようとした長い積み重ねがあったことを、この冊子は思い出させる。
海岸と砂地を守る仕事
遠州灘に面した福田・豊浜にとって、海はめぐみであると同時に脅威でもあった。強い季節風が砂を飛ばし、田畑や家を埋めていく。伊藤五郎が豊浜海岸に松を植えて砂防林を育てたのは、その砂と向き合う仕事だった。海岸の松林は、ただの風景ではなく、土地を守るために人が手をかけて育てたものだという視点が、ここから見えてくる。
幕末の庄屋・寺田彦太郎が「ならい波」と呼ばれる荒い波に向き合ったという伝えも、同じ海岸の暮らしの延長にある。砂を留め、波から集落を守る営みは、一代では終わらない。世代をまたいで続けられた砂防の仕事が、いまの福田・豊浜の海岸線の土台になっている。
漁業と海の産業
福田は、遠州灘のシラス漁で知られる漁業のまちでもある。伊藤重平は、その福田漁業の先覚者として紹介される。シラス漁の漁法を工夫し、動力船を取り入れ、とれたシラスの加工へと手を広げた。海は荒く、漁は危険と隣り合わせだったが、その恵みをどう暮らしにつなげるかという挑戦が、海辺のまちの産業を形づくっていった。
シラスは、いまも福田・豊浜を語るときに欠かせない。漁港と加工、流通までを含めた海の産業の出発点に、こうした先覚者の試行錯誤があったことを、この冊子は記録している。
農業と産業の工夫
砂地のまちは、その条件を逆手にとって新しい産業も生んだ。寺田市十が「丸三工場」を起こして取り組んだ別珍(綿ビロード)織物は、のちに福田を全国に知られる織物産地へと押し上げていく。最初の技術開発に苦心した時期の話は、産地がいきなり生まれたわけではないことを伝える。
豊浜では、伊藤真一・次平・孝作・照作[要確認]がガラス温室による栽培をはじめた。水はけのよい砂地は、温室園芸には向いた土地でもあった。海岸を守る松林、織機の音、温室のガラス。海と砂という同じ条件のうえで、漁業とは別の産業の芽が、いくつも育っていったことになる。
地方自治と町づくり
最後に、村と町を運営した人びとがいる。川島直次郎は、資料が「旧於保地区」と記す村で村会議員・村長を務め、農業の改良や村の世話に尽くした。村が自分たちの手で物事を決めていた時代の、地域運営の担い手である。
大竹十郎は、東京帝国大学法学部に学んだのち、戦後の混乱期に福田町初代の町長となった。新制中学校の整備や中央公民館の建設など、新しい福田町の自治の土台づくりに関わったと記される。福田町は、平成17年(2005年)に磐田市・竜洋町・豊田町・豊岡村とともに合併し、現在の磐田市となった。合併で行政の名は変わっても、その手前に、村や町を自分たちで担おうとした人びとの積み重ねがあった。『郷土の先覚者たち』は、その記憶を一冊にとどめた記録である。
参考資料
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。序=福田町長 寺田徳一、発刊のごあいさつ=福田町教育委員会教育長 木野孫六、あとがき=編集委員長 加藤正。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。人名・地名・年号は資料と巻末正誤表で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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