LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ③
寺田彦太郎・彦八郎
── ならい波と向き合った幕末の庄屋
- 寺田彦太郎
- 文政5年(1822年)2月4日 ― 明治36年(1903年)10月6日、享年82。遠江国山名郡福田村福田の生まれ。父は彦左衛門良賢。号は観海。藍綬褒章を受けた。
- 寺田彦八郎
- 弘化3年(1846年)8月1日生まれ。彦太郎の長男、寺田家13代当主。父の事業を継ぎ、養魚を本格化させた。没年は資料で確認できず[要確認]。
- 関係地
- 福田村福田・向井(現在の磐田市福田)、太田川・仿僧川河口、福田港、遠州灘沿岸
- 分野
- 庄屋・大庄屋/港口掘削・海岸砂防・治水/製塩・養魚/地方自治・著述
- 出典
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)。第3章「ならい波 ── 幕末の庄屋寺田彦太郎・彦八郎 ──」
「向井のお役所」と寺田家
徳川三百年のいわゆる太平の眠りからさめ、日本が急いで近代へと歩きだした幕末から明治、世にいう「ご維新」の激動期に、福田の地からも一人の人物があらわれた。俗に「向井のお役所」と呼ばれた家の当主、寺田彦太郎である。資料は、文政・天保・弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応・明治と、実に十の年号を生き抜き、近代日本の黎明期に心血をそそいだ人として彼を描く。
寺田家は福田村福田の庄屋の家で、彦八郎で13代を数える古い家系である。現当主に伝わる膨大な古文書や記録は、その量と価値において近在に類をみないと資料は記す。きちょうめんに記録を残した彦太郎自身の性格と、それを守り通した子孫の祖先崇拝のたまものだという。海と砂のうえに立つ村で、何代もの庄屋が積み重ねてきた仕事の一端が、いま私たちの手元に残されているのは、そのおかげである。
「ならい波」とは何か
章の題名にもなっている「ならい波」は、遠州灘の暮らしを言いあてた言葉である。資料によれば、この地方では海鳴りも天候を読む大切な手がかりとされた。南東から聞こえる波音を「ならい波」と呼び、東から吹く風を「こち」、東北からの風を「富士ならい」といった。これらの場合は天候が回復するという。反対に、西から聞こえる波音は普通「いせ沖」と呼ばれ、はるかな伊勢洋を指すのだろうと資料は推し量る。
天気予報も気象通報もない時代である。海鳴りの方角、風の向き、波音の高さから明日の海を読むのは、古老の漁師くらいの技だった。彦太郎の生涯の大半は、この自然との闘いだったと資料はいう。打ち寄せる高波、暴風雨、出水、そして旱魃。当時どんな技術をもってあの暴れる河口を固定し、掘削し、堤防を築いたのか。流されてはまた築きながら、彼の耳に届いた「ならい波」は、やさしい子守唄だったのか、それとも嵐の前の呪文だったのか。資料は、そんな問いかけから彦太郎の生涯へ分け入っていく。
幕末の庄屋・寺田彦太郎の仕事
彦太郎が福田村の庄屋役を申しつけられたのは、天保7年(1836年)2月、まだ15歳の若さだったと資料は記す(享年から逆算すると数えで十代半ばにあたる)。領主は西尾隠岐守。天保13年(1842年)には大庄屋役となり、名字帯刀を許され、二人扶持を給された。はじめは父彦左衛門が後見についた。庄屋とは、村のなかで年貢の取りまとめや領主・幕府との交渉、村の運営を担う村方の長である。彦太郎の場合、その役目はそのまま、暴れる海と川を相手にする土木の仕事と一つだった。
資料に並ぶ年表からは、その働きの幅がうかがえる。弘化3年(1846年)には荒地を開拓し、七町余歩(約7ヘクタール)を村民へ分け与えた。嘉永5年(1852年)正月には西尾候から福田港口掘削工事の世話係を申しつかり、安政6年(1859年)には字柳原新田の芝地十町歩(約10ヘクタール)の開拓を完成させて、これも村民に平等に分配したという。村のために土地を生み出し、それを独り占めにせず分け与える ── 庄屋の仕事の根に、そうした姿勢があったことが読み取れる。
村の枠を越える働きもあった。安政2年(1855年)、天竜川の堤防が決壊したときには、山名郡の組合八ヶ村の堤防防衛に尽力した。安政の大地震からの復興では、横須賀本城や江戸の普請の費用として、大庄屋仲間で申し合わせ、村内の有志を募って一万五千両という大金を差し出したと資料は伝える。その功により、安政3年(1856年)には大小の刀や印籠を下賜された。明治3年(1870年)9月には、暴風雨のなかで自ら回船を指揮し、流された四十余名を救助している。福田港の築港(慶応2年・1866年)や港口の掘削(明治4年・1871年ほか)、仿僧川への長い堤防の構築(明治12年・1879年、約2,500メートル)と、海と川にかかわる仕事は生涯続いた。
その総決算といえるのが、明治17年(1884年)の福田港口の掘削である。当時の工法は、まず川をせき止めて降雨をため、一気にせきを切って、その流れの勢いで両岸や川底を削り、河口を大きく広げるというものだった。幾度も苦心を重ねてついに目的を達し、沿岸二百六十余町歩の田畑を水害の憂いから守り、船の出入りに便宜をはかったという。「ただ広く公のためにだけ心をくだき、自分の家が困窮したのも気にかけなかった」と資料は記す。この功績によって、彼は藍綬褒章を賜った。
港口を掘る ── 彦八郎と海との闘い
万延元年(1860年)、彦太郎は庄屋役を子の彦八郎にゆずる。海の大波を防ぐ砂堤を築く方法を建議し、それが採用されて着工した、ちょうどその時期である。資料がもっとも筆を尽くすのは、この港口掘削をめぐる彦八郎の苦闘の場面だ。
明治3年(1870年)の秋、大しけにあって、それまで築いた製塩用の家屋や釜屋、道具がほとんど流され、堤防も壊れて、寺田家は無一文になった。親戚や友人は「製塩は思い切ってやめよ」と言う。それでも彦八郎は、村の将来のため、この地の大難を救うのは長たる者の務めだと決意し、心を鉄石に固めた。御年貢米として納める分まで売却してでもやり通すと宣言し、二百俵を売って工事の資金にあてたという。「無一文でもよし、御年貢米を売却したと言われても末代までの恥辱だが、ここに前もって申し上げる」── 資料が伝えるその覚悟は、庄屋の家が公のために身代を傾けた幕末・明治の村の一断面である。
工事は難航をきわめた。川をせき止め、東へ五百間(約900メートル)の水路を掘り、ためた雨水の落下する力で河口を開こうとする。ところが、せきは何度も大波に壊された。資料には、遠州灘の沖に魔物がいて、海岸の工事をすると荒れるという言い伝えまで紹介され、彦八郎が暴風雨の夜にせきを守って若者たちと踏みとどまる場面が、ほとんど物語のように描かれる。そこへ、房州(千葉県)の船乗りが「タコ」と呼ぶ簀(すだれ)状の道具を持ち込み、決壊しかけたせきを救ったという挿話が伝わる。礼をしようと探しても、その船乗りはどこにも見当たらず、人々は「神助」だと噂しあったと資料は記す。逸話には脚色もうかがえるが、海を相手にした工事がいかに人知の及ばぬものだったかが、よく伝わってくる。
苦心の末、明治4年(1871年)に港口の掘削はひとまず成り、のちの明治17年(1884年)の本格的な掘削へとつながっていく。流されては築き直す営みは一代では終わらない。父彦太郎が建議した砂堤と港口の構想を、子彦八郎が現場で背負った。資料は、向井に移り住んで朝な夕な波がしらを見、波音に耳を傾けて自然の猛威に日夜心を砕いた父子の姿を、くりかえし書きとめている。
文人としての顔と、神に祈る人
彦太郎には、土木と統治の人とは別の顔があった。豪気な性格の一面、文才にも秀でていて、観海と号し、晩年には『皇道奥義』『続皇道奥義』などの著作をなして、郷土の人心の教化に影響を与えたと資料は記す。明治に入ってからは地方の議員にも当選し、公衆に尽くしたという(選挙・議会の種別や回数は判読しづらく[要確認])。
『皇道奥義』の付録として明治35年(1902年)の春に記した文章には、信仰の人としての彦太郎がのぞく。「私は神を敬うが、神に祈ったことはいくらでもある。けれども神の助けを得たと思うことはいくらでもある」と書き出し、福田港の土地のいわれと、港口にそそいだ自らの仕事を語っていく。海と砂を相手に祈るほかなかった人の、率直な述懐である。
暮らしぶりも質素だった。手紙の封筒は一度使ったものを自分の手で裏返しに作りかえて再び使い、衣服も木綿で通した。家族に手織機で織らせた白い綿布一反を、毎年の歳暮として金原明善へ贈り、彦太郎の死後も家族がその習いを続けて、明善が没するまで絶えなかったという。明治36年(1903年)10月6日、日露開戦前夜の秋風のなかで、彦太郎は多くの栄光と賞状に包まれた生涯を閉じた。享年82。戒名は観政道海居士と伝わる。
養魚を切りひらく ── 砂地から近代へ
彦八郎は弘化3年(1846年)8月1日、彦太郎と母美保子の長男に生まれ、寺田家13代を継いだ。万延元年(1860年)に庄屋役を受け、明治に入ると戸長・副区長・区長・大区会議員・村会議員のほか、学区取締や医務取締、福田港の船役、郵便取扱役までを兼ね、地域の世話役を一身に担う。明治12年(1879年)には金原明善の治河協力社の差配人を、明治31年(1898年)には磐田郡幸浦外五カ村組合村の村長を務めた。村方三役の家が、近代の地方行政の担い手へと移っていく、その典型のような経歴である。
彦八郎の名を地域史に刻むのは、なんといっても養魚である。父の代から続けた製塩は、しけのたびに設備を流され、燃料の薪も高くついて採算が合わず、明治9年(1876年)ごろに廃止された。彦八郎は、堤防の内側にできた川跡の沼にボラなどの魚が住みつくのを見て、荒れ地を耕地にかえ、さらに沼をさらって養魚池とすることを思いつく。明治11年(1878年)ごろから仿僧川の水を引き入れて養魚をはじめた ── 資料はこれをわが国でも最も古い養魚事業のひとつと位置づけ、今日の地場産業の基をきずいたものとして特記している。
開墾は暴風雨にたびたび覆されたが、明治22年(1889年)の大暴風雨に、はじめて防波堤が耐えた。父子二代にわたる長い努力がようやく実を結び、本格的な養魚経営に乗り出す。県知事から養魚成績一等賞を、水産品評会では模型養魚場の賞として銀盃を受けるなど、その仕事は外からも認められていった。彦太郎・彦八郎が掘った川口と、彦八郎がひらいた養魚池は、のちに太田川・浜名湖周辺へ広がる養魚・養鰻業へとつながり、今日では中遠の養鰻が新鋭の工場でかば焼きとして全国へ出荷されるまでになっている。
いま福田の浜に立つと、寄せるさざ波も潮騒も昔と変わらない。だが、分厚い防潮堤が時化をさえぎり、磯の松も茂って、彦太郎父子が幾度も血をそそいで掘削した川口の先には、人工の巨大な港湾が姿を見せはじめている。この変わりようを、地下の彦太郎らはどんな思いで眺めるだろうか ── 資料はそう問いかけて章を閉じる。海はめぐみであると同時に脅威でもあった。その同じ海と砂のうえで、土地を守り、新しい暮らしの糧を生み出そうとした二代の仕事が、いまの福田の海岸線と地場産業の土台になっている。
参考資料
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。第3章「ならい波 ── 幕末の庄屋寺田彦太郎・彦八郎 ──」。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所や干支年号と西暦の対応などに検討の余地がある箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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