LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ⑥
寺田市十 — 丸三工場と福田別珍のはじまり
- 人物
- 寺田市十(てらだ いちじゅう)
- 生没
- 文久3年(1863年)10月11日 — 大正13年(1924年)11月13日。62歳[要確認:本文は10月10日生、略歴は10月11日生と記す]
- 関係地
- 磐田郡福田村福田(現在の磐田市福田)。太田川河口近く
- 分野
- 織物業。別珍(綿ビロード)の製織・剪毛技術の開発
- 出典
- 『郷土の先覚者たち 第一集』第6項「別珍織物を生み出す」
米穀商の子から織物へ──丸三工場の設立
寺田市十が生まれたのは、文久3年(1863年)の秋、幕末の動乱がまだ続いていた時期である。場所は磐田郡福田村福田、太田川が遠州灘へ注ぐ河口に近い村だった。家は米穀商を営んでおり、市十はその長男として育った。資料によれば、12歳ごろからすでに家業を手伝い、行商にも積極的に出て、汗を流して一生懸命に働く子どもだったという。海と砂地のあいだに開けた村で、商いの感覚を早くから身につけた人物だったことがうかがえる。
そのころ、福田の地元では「コール天織物」がさかんに織られていた。コール天とは畝(うね)を立てて毛羽を起こした綿織物で、いまでいうコーデュロイにあたる。大規模な工場も設立され、多くの村人が工場の仕事に関わっていた。市十も、商いのかたわらこの織物業に目を向ける。そして明治25年(1892年)ごろ、自宅に織機を4台そろえ、小規模ながら工場の経営を始めた。
最初から事業の規模を追ったわけではない。資料は、市十が「品質のよい布を織って高く売るか、それとも数量を増やして稼ぐか」という二つの道のあいだで毎月のように悩み、来る日も来る日も考えつづけたと伝える。一人で抱え込むよりは仲間と力を合わせたほうがよいと考えた市十は、知恵を出し合い、福田の藤村重吉[要確認]・寺田惣作[要確認]と相談を重ねた。
その結果が、明治31年(1898年)の「丸三工場」設立である。三人の共同経営で、織機を10数台そろえ、従業員20数名で操業を始めた。目標は、生産量を増やすことと、良質な布をつくることの両立だった。だが当時の織機は手織りで、手間がかかるわりに生産高が伸びない。そこで市十は、動力をジーゼル機関に切り替えて生産高を引き上げた。織機の「ポン、ポン」という賑やかな音が周囲に響きわたるほどに事業はにぎわい、明治35年(1902年)にはジーゼル機関を備えつけ、翌明治36年(1903年)には浜松・豊橋・横須賀(現在の大須賀町)に賃機(ちんばた)工場を設けて、織機40台・従業員30名という規模にまで広げていった。
福田という村が、漁業や砂防だけでなく、機(はた)の音で動く産業の村でもあったことが、ここからよくわかる。市十の歩みは、その織物業のなかから始まっている。
別珍とは何か──コール天と綿ビロード
市十の名と結びつく「別珍」とは、いったいどんな織物なのか。別珍は綿ビロードとも呼ばれ、表面に短く密な毛羽(けば)を立てた綿織物である。光をやわらかく吸う、しっとりとした手ざわりが特徴で、洋装の襟や帽子、足袋や履物、装飾用の布などに広く使われてきた。ビロードはもともと絹で織られる高級な毛織風の布だが、それを綿で実現しようとしたのが別珍である。
ここで先に福田で広まっていたコール天と比べると、両者の関係が見えてくる。コール天は太い畝(コード=畝)が縞状に走る織物で、丈夫で経済的なため日常の衣料に向く。これに対し別珍は、畝のない一面の毛羽を、短くそろえて刈り込むことで、なめらかな面をつくる。どちらも「織ったあとに毛を起こし、刈りそろえる」工程をもつ点では同じ系統の織物だが、別珍のほうがはるかに細かく、精巧な仕上げを要する。
この「刈りそろえる」工程を、織物では剪毛(せんもう)と呼ぶ。市十が生涯をかけて格闘したのは、まさにこの剪毛の技術だった。コール天という土台がすでに福田にあったからこそ、その先にある別珍へ進もうとした――市十の挑戦は、何もないところから生まれたのではなく、地元の織物業の蓄積のうえに立っていた。
なぜ別珍を志したのか
丸三工場の経営がようやく軌道に乗りはじめたころ、市十は別珍織物の研究へと踏み出していく。資料は、市十が他の人とは異なる考え方で別珍へ向かった理由を、おおよそ次の三点として整理している。
一つめは、コール天が丈夫で経済的な布として、これからも安定した需要をもつだろうという見通し。二つめは、より長い目で見たときの市場の変化である。工場が増えて大量生産が進むなかで、これからは社会が進歩し、人びとの好みもしだいに高尚に、また派手になっていく。そうなれば、コール天よりも絹天やビロードのような上等な布の需要が、きっと伸びるはずだと市十は読んだ。三つめは、その絹天織に剪毛をほどこせば、コール天よりもっと高級な製品が得られ、その事業は非常に有望だろうという読みである。
目の前の商いに追われるのではなく、これから人びとが何を求めるようになるかを先回りして考える。市十が別珍に賭けたのは、こうした商人らしい長い目の見通しがあったからだった。とはいえ、それを支える肝心の剪毛技術は、まだ誰の手にもなかった。
技術開発の苦心──剪毛機械と財産
絹天の布に剪毛をほどこす――言葉にすれば一行だが、その実現は容易ではなかった。絹天の剪毛はコール天の剪毛とは勝手が違い、毛をごく細かく、精巧に刈りそろえなければならない、むつかしい仕事だった。失敗の繰り返しが続き、良い方法はなかなか見つからない。市十は物事を深く考えこむ性分で、人とは全く違うやり方で研究を進めていったという。
研究には費用がかかる。市十は自分の財産を惜しまずつぎ込み、なかでも高値だった剪毛機械をわざわざイギリスから輸入して、そこから手がかりを得ようとした。だが使用方法が理解されず、遂に失敗に終わる。この一件で市十は財産を残りなく使い果たしてしまった。生活は困難になり、税金さえ納められなくなる。村人からは「どうしたら、美しい布ができるだろう」とつぶやきつづける姿を見て、「変人だ」と笑う者もいた。それでも市十は、まわりの目を気にもかけず、必死で研究を続けた。
行き詰まったとき、市十はこの仕事が人の力だけでは到底かなわないと考えるようになり、当時の福田で信心者として知られていた人物――宙千稲荷[要確認]の千賀歌吉[要確認]に相談をかけ、神仏の力にもすがったと資料は伝える。明治41年(1908年)ごろには、友人の藤村伝八[要確認]とともに杉浦長四郎[要確認]に相談し、絹天の製織や剪毛の研究に取り組むが、それも一度はくじけてしまう。
こうした失敗と苦心を幾度も重ねたすえに、市十はついに別珍の製織と剪毛の方法をつくりあげた。研究の完成は大正元年(1912年)。同じ年、別珍の製織・剪毛法は第六回全国特産品博覧会で一等金賞牌を受けている。翌大正2年(1913年)には加工仕上げの研究も仕上がった。何もないところから一つの織物を生み出すのに、市十はおよそ20年の歳月を費やしたことになる。
別珍の流行と「別珍」という名
市十が生み出した別珍の製織法は、いつの間にか各工場に採用され、しだいに別珍を織りはじめる者が現れていった。需要はコール天とともに増え、福田の重要な織物となっていく。資料によれば、別珍は地元の福田だけで発達したのではなく、遠く埼玉県の方面にまで伝わり、各地でこの事業の発展をもたらした。市十は、製品の販路を広げるために明治41年(1908年)に名古屋へ出て単身で滞在し、製品の販売に身をささげるとともに、製品の価値の宣伝と普及につとめたという。別珍製品は大正元年(1912年)に全国特産品博覧会へ出品して優秀な成績を収め、ほかにも数多くの賞状が残された。その後、大正6年(1917年)ごろからは別珍織物界にも好景気の波が押し寄せ、業界は再び盛んになった。
ところで、「別珍」という名そのものにも、市十にまつわる由来が語られている。丸三工場で別珍を織り出すようになったころ、その布には品名がなく、税務署が織物として税を取り立てようにも呼び名がなくて困ってしまった。そこで藤村氏が「これはビロードのようなものだから、別珍とでもしたら」と提案し、市十も税務署員もこれを承知して、正式に「別珍」と命名されたのだという。新しい織物が一つの名を得て、税の制度のなかに位置づけられていく――その小さな場面に、市十たちの試行錯誤が刻まれている。
福田が織物のまちになるまで
市十の歩みを並べてみると、福田が織物の産地になっていく道のりが、一人の人物の苦闘として見えてくる。すでにあったコール天に剪毛の技術を加え、より高級な別珍へ。その技術を惜しみなく地元へ広め、販路を遠方にまで開いた。資料は、市十が地元のためだけでなく、県の方面にも、国家的にも大きな功績を残した、と評している。
もっとも、その道は平坦ではなかった。別珍の剪毛・加工仕上げの技術がようやく進歩し、事業がさかんになろうとした大正3年・4年(1914年・1915年)に、不幸にも第一次世界大戦による不況が織物界にも波及する。市十がそれまでに計画していた工場も、縮小せざるをえなくなった。今までの苦心を思えば、それは福田の別珍界にとっても残念な出来事だった。
市十という人は、信仰心が厚く、起床すると身を清めて神仏に礼拝をすませ、そのあと丸三工場を巡視して状況を確かめるのを日課にしていたという。帰宅後に朝食をとり、机に向かうときはきちんと正座して事務をとった。腰を低くして礼を尽くし、笑顔を絶やさなかったその人柄から、人びとは市十を「福田のえびす」と呼んで親しんだと伝えられる。派手な成功者というより、こつこつと布に向き合う職人肌の経営者だった。
その功績をたたえて、大正7年(1918年)には有志によって記念石碑が建てられた。市十が亡くなったのは大正13年(1924年)11月13日、62歳のときである。後年、町制施行の記念にあたって、別珍研究の功労者として改めて表彰された[要確認:略歴の表彰年の記載に年号・西暦のずれがある]。福田の織物が全国に知られていく流れの、いちばん最初の苦労を引き受けた人物として、この記念石碑はいまも市十の名を伝えている。
遠州灘と太田川にはさまれた砂地の村は、漁業や砂防だけでなく、機(はた)の音でも暮らしを立てた。寺田市十が財産を使い果たしてまで剪毛の方法を探りつづけたことは、その一人の試行錯誤が、地域の産業の芽になりうることを静かに物語っている。
参考資料
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。第6項「別珍織物を生み出す ── 技術開発に苦心をした寺田市十 ──」および巻末の「寺田市十略歴」。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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