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LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ⑪

大竹十郎 — 戦後福田町の初代町長

東京帝国大学法学部に学び、内務官僚として全国を渡り歩いた人が、戦後の混乱のなかで郷里に近い福田町へ呼び戻され、初代の町長になった。大竹十郎は、新制中学や中央公民館、上水道、都市計画といった、いまの暮らしにつながる仕組みを、何もないところから整えていった。エリート官僚がなぜ一つの小さな町の自治に身を投じたのか。遠州灘と砂地のまちの戦後を、その歩みからたどる。
本ページは、公開資料・地域資料をもとに磐田物語が独自に整理した地域史コンテンツであり、行政機関の公式ページではない。原資料の本文をそのまま引き写したものではなく、内容は独自の言葉で再構成している。人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読や資料間で記述が分かれる箇所は「[要確認]」と記して残した。
人物
大竹十郎(おおたけ じゅうろう)。旧姓は鈴木。
生没
明治21年(1888年)7月28日 〜 昭和54年(1979年)8月4日。享年91。
出身
磐田郡向笠村笠梅(現在の磐田市向笠付近)。鈴木治平・たまの五男。のち福田の大竹家に婿養子。
主な肩書
内務官僚(郡長・各府県の課長や警察部長など)/福田町初代町長
分野
地方自治・町づくり(戦後の福田町政)
出典
『郷土の先覚者たち 第一集』(福田町教育委員会、昭和55年〈1980年〉)

向笠村に生まれ、福田の家へ

大竹十郎は、明治21年(1888年)7月28日、磐田郡向笠村笠梅(現在の磐田市向笠のあたり)に生まれた。生家は鈴木家で、父・鈴木治平の五男だった。資料によれば、父の治平は明治40年(1907年)ごろから村の役を務め、のちに静岡県会議員、さらに県議会議長まで務めた人物だったという。十郎は、村の暮らしを近くで見ながら、同時に地方政治の現場を間近に感じて育ったことになる。

生まれたのは向笠だが、福田の地に縁ができたのは、もう少し後のことである。向笠尋常小学校に学び、見付町立高等小学校を経て静岡県立静岡中学校に進んだ十郎は、その中学時代に、福島村福田(現在の磐田市福田)の大竹清一郎に見込まれた。長女みよしとの結婚を経て、明治41年(1908年)に大竹家へ婿養子として入る。鈴木家から大竹家へ、向笠から福田へ。のちに「福田町の町長」と呼ばれることになる人の足は、こうして遠州灘に近いまちへとつながっていった。

静岡中学では特待生だったと記される。家の事情や土地の縁だけで進路が決まる時代に、学業の力で道を開いていったことがうかがえる。海と砂地に向き合う村の出身者が、当時としては最高の学歴へと歩を進めていく出発点が、ここにあった。

一高・東京帝大から内務官僚へ

静岡中学を卒業した十郎は、明治44年(1911年)に第一高等学校へ進み、さらに東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。大正4年(1915年)に同学部を卒業すると、その年のうちに文部省の普通学務局に入り、官吏の道へ進む。旧制中学・一高・東京帝大というのは、当時の日本で官界・学界の中枢へ通じるごく限られた道筋であり、遠州の海辺の村から出てこの経路をたどった人は、そう多くはなかったはずである。

その後の経歴は、戦前の内務官僚の典型的な、しかし密度の濃い歩みである。大正7年(1918年)には山口県都濃郡長を拝命し、同県の理事官・地方課長を務めた。続いて福島県、神奈川県へ移り、神奈川県では社会課長・教務課長・視学官・学務部長などを次々に歴任している。教育・社会・地方行政といった、人びとの暮らしに近い分野を渡り歩いたことがわかる。

大正15年(1926年)の暮れからは、警察行政へと舞台が変わる。佐賀・宮崎・三重・岡山・福岡の各県、そして大阪府の警察部長を歴任し、昭和6年(1931年)12月には警視庁の警務部長に就いた。当時の慣例では、ここまで来れば次は知事に進むのが通り相場だったという。順調に行けば、一つの県を預かる立場が見えていたのである。

桜田門事件と官界からの退場

ところが、運命は思わぬ方向に転がる。昭和7年(1932年)1月8日、いわゆる桜田門事件が起きた。これは、陸軍の観兵式からの帰り、桜田門の外を進む行列のなかで、天皇の馬車に向けて李奉昌が爆弾を投じた事件である。爆弾は的を外れたが、首都の治安を預かる立場として重大な出来事であり、当時警視庁の警務部長だった十郎は、その責任をとって官を退いた。資料は「依願退官」と記している。

順当に行けば知事の椅子が見えていた人が、自らの管轄下で起きた事件の責めを負って職を去る。エリート官僚の経歴のなかでも、これは大きな転機だった。退官後の十郎は、しばらく朝鮮総督府に職を得て、慶尚北道の内務部長や警務局の保安課長などを務めたと記される。この朝鮮での時期にまつわる逸話も資料に残るが、それは後で触れたい。やがて時代は太平洋戦争へと向かい、敗戦を迎える。中央の官界で長く生きた十郎が、戦後にふたたび表舞台へ立つ場所は、出世の階段ではなく、郷里に近い小さな町だった。

呼び戻されて初代町長になる

戦後、日本国憲法のもとで、町村長は住民が直接選ぶ公選制に変わった。福田の町でも、新しい仕組みのもとで町長を選ぶことになる。このとき白羽の矢が立ったのが、東京に暮らしていた大竹十郎だった。資料には、十郎が「無理に候補者として引き出され」たと記されている。本人が望んで名乗りを上げたというより、町の側が、官界での経験と人物を見込んで担ぎ出した、というのが実情に近いようだ。

最初の選挙は、町を二分する激しいものだったという。十郎はわずかの差で当選した。資料の本文は、この最初の公選を昭和22年(1947年)のこととし、巻末の略歴は福田町長への当選を昭和26年(1951年)・昭和30年(1955年)・昭和34年(1959年)と記しており、最初の当選年の表記は資料のなかでも分かれている[要確認]。いずれにせよ確かなのは、十郎が戦後の福田町で長く町長を務め、二度目以降は三期続けて無投票で選ばれた、ということである。最初は町を割った人物が、その後は対抗馬も立たないかたちで信任され続けた。そこに、十郎への信望の厚さが表れている。

就いた時代は、けっして楽な時代ではなかった。戦後の混迷のなかで、民生も経済もきわめて不安定で、しかも「民主主義」という新しい考え方を、現場の地方行政にどう根づかせるかが問われていた。十郎は、官の高い地位を経験した人でありながら、町民とじかに接し、対話を重ねることを大事にしたと伝えられる。長い任期のあいだ、郡や県の町村会長を四期にわたって務め、全国町村会の理事や、国の地方制度調査の委員といった役も引き受けた。一つの町の運営にとどまらず、戦後の地方自治そのものの組み立てに関わる立場でもあった。

大竹十郎の歩み(おおまかな年表) 1888 向笠村笠梅に生まれる(鈴木家五男) 1908 福田の大竹家へ婿養子 1915 東京帝大法学部を卒業、官吏に 1931 警視庁警務部長 1932 桜田門事件の責任をとり退官 戦後 福田町初代町長に(公選) 1953 中央公民館/1957 於保村合併・上水道へ 1960 退職/1979 没(享年91)
大竹十郎のおおまかな年表(磐田物語が資料の略歴から作成)。年次は資料の記述にもとづくが、最初の町長当選年は本文と略歴で表記が分かれる。

水道・公民館・都市計画 ── 戦後福田町の土台

十郎の町政の特徴は、目の前の不便を一つずつ解いていきながら、同時に「これから」を見据えて計画を立てたところにある。資料が伝える主な仕事を、いまの暮らしに引きつけて並べてみる。

飲み水を確保する ── 上水道の完成

町長になってから十郎がまず心を痛めたのが、町内の飲み水の質だった。良い水を町民に届けたかったが、福田の町のなかには適した水源がなく、計画はなかなか進まなかった。転機は、昭和32年(1957年)に隣の於保村と合併したことである。これによって南田地区の良質な水が使えるようになり、昭和34年(1959年)12月から上水道の敷設にこぎつけた。資料はこれを「町民永年の夢」の実現と記す。蛇口をひねれば飲める水が出る、という当たり前のことが、この町では戦後になって、合併と工事を重ねてようやく手に入った。

学びと集いの場 ── 中央公民館の建設

戦後の不安定な社会のなかで、十郎は社会教育の充実が必要だと考えた。大人も子どもも学び、集える場として、昭和28年(1953年)12月に中央公民館を建てている。新制中学が始まり、教育の仕組みそのものが大きく組み替えられていく時期に、学校の外の学びの拠点をまちの中心に据えたことになる。福田町の自治の土台づくりのなかでも、人を育てる場をつくる仕事に、官吏時代に教育行政を歩いた経験が生きていたのかもしれない。

車の時代を見越して ── 都市計画と道路

福田の街路は、中心的な道でも道幅が狭かった。十郎は、これから来る車社会を見越して、「主要な道を広げるとき、周りの幹線道路が整っていなければ、人に移転をお願いすることもできない」と考えた。そこで昭和25年(1950年)に町の都市計画を定め、昭和27年(1952年)度から、役場前を通る磐田豊浜線を皮切りに、道路や排水路の整備を進めた。目先の渋滞ではなく、何十年か先のまちの姿から逆算して道を引くという発想は、行政の現場を長く見てきた人らしい。

農と暮らしを支える ── 土地改良・住宅・若草会

砂地のまちらしく、農業の足場を固める仕事にも力を入れた。昭和32年(1957年)には土地改良区を設け、自ら初代の理事長を務めている。これにより農地の整理が進み、食料の増産など農業の振興につながった。戦後の住宅難に対しては町営住宅を建て、広報紙「広報ふくで」を発刊して町の情報を住民に届けた。青少年の健全育成のためには、昭和32年(1957年)に「若草会」を創設し、昭和35年(1960年)にはこれを全町民を会員とする組織へと広げている。町村合併や新しい町の建設計画づくりまで含め、十郎の仕事は、新しい福田町の骨格をひととおりかたちにするものだった。

こうした働きは、町の外でも評価された。昭和34年(1959年)11月には、地方自治の功労者の全国代表として、当時の岸信介首相に官邸へ招かれて表彰を受け、続いて宮中で天皇への拝謁を許されたと記される。一つの町の町長が、全国を代表してこうした場に立った。十郎の歩みが、福田町という枠を超えて戦後の地方自治の歩みと重なっていたことを物語る出来事である。

しかし、長年の無理がたたったのか、十郎は任期の途中で健康を害し、昭和35年(1960年)9月18日、町民に惜しまれながら町長を退いた。在職は13年余りに及んだ。退職して東京の家で療養しながらも、十郎は福田のことを気にかけ続けた。役場から送られてくる広報で町の様子は分かるものの、「これはどうか、あれはどうか」と、訪ねてくる町の人に尋ねていたという。昭和54年(1979年)8月4日、例年にも増して厳しい暑さのなか、眠るように世を去った。享年91。同月19日、自ら礎を築いた中央公民館で、町主催の告別式が営まれた。

官僚が郷里の町長になった意味

大竹十郎は、一見すると「とっつきの悪い人」で、太い声でものを言う人物だったと資料は記す。だが、付き合ってみると人柄の温かさが伝わり、敬愛されたという。町長公用車を改まって乗り回すよりも、町中をトラックや自転車で走り、現場に出て住民と言葉を交わすことを好んだ。高い官職を経験した人でありながら、その姿勢は終始、まちの地面に近かった。

朝鮮総督府にいた時代の逸話も残る。戦時下で紙が不足していたとき、行政の知恵をしぼり、葦(あし)の繊維を使ってみてはどうかと指導した。その結果、上質とまではいかないが、紙不足を補う紙ができたという。プロ野球が好きで、特に巨人びいきだった十郎は、忙しい合間にラジオの中継に聞き入り、巨人が勝つと子どものように喜んだとも伝えられる。難しい仕事の合間にのぞくこうした人間味が、堅い経歴の人を町民に近づけたのだろう。

この冊子に並ぶ福田の先覚者たちの多くは、寺子屋の師であったり、海岸に松を植えた漁夫であったり、織機や温室に挑んだ人であったりと、土地の暮らしのなかから立ち上がってきた人びとである。そのなかで大竹十郎は、いったん中央の官界へ出て、全国を渡り歩いてから郷里に近いまちへ戻ってきた、やや異色の存在だ。けれども、戦後の混乱期に、飲み水・道路・公民館・学校・住宅という生活の土台を一つずつ据えていった仕事は、結局のところ、海と砂地に向き合ってきた村の課題を、行政の言葉で引き受け直すものだった。

福田町は、のちに大きな合併の流れのなかへ入っていく。昭和32年(1957年)の於保村との合併を経て新しい福田町がかたちづくられ、さらに平成17年(2005年)には、磐田市・竜洋町・豊田町・豊岡村とともに合併して、現在の磐田市となった。行政の名は移り変わっても、いまの福田の上水道や道路、まちの中心にある公共の場の多くは、戦後すぐの時期に「これから」を見据えて据えられた土台の上にある。エリート官僚が一つの小さな町の自治に身を投じたことの意味は、その積み重ねのなかに残っている。

高い官職を経た人が、町長公用車よりトラックや自転車を選び、現場へ出て町民と言葉を交わした。難しいまちの戦後を、その地面の近さで支えた。 ── 『郷土の先覚者たち 第一集』の大竹十郎の記述を読んで

参考資料

  • 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。「10 地方自治の振興に尽した戦後初代の町長 — 大竹十郎」の項および巻末の略歴による。

本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所や資料間で記述が分かれる箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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