LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ②
早苗庵知碩 — 中野の句碑が伝える海辺の俳諧
- 名前
- 早苗庵知碩(さなえあん ちせき)。姓は加藤、名は多蔭(よしかげ)、通称は吉重(きちじゅう)。号が早苗庵。シリーズ親ページの見出しでは「知何」と表記
- 生没
- 文化11年(1814年)10月1日 — 明治34年(1901年)12月23日。86歳(数え)。法名「早苗庵徳翁知碩居士」
- 関係地
- 福田町中野(現・磐田市福田中野)。師の住む塩井川原は今の掛川市東山口
- 分野
- 俳諧(俳句)の宗匠。芭蕉の流れをくむ柿園嵐牛の門人
- 出典
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)
中野に生まれた俳人 早苗庵知碩
早苗庵知碩は、文化11年(1814年)10月1日、いまの福田町中野に生まれた。姓は加藤、名は多蔭(よしかげ)、通称を吉重(きちじゅう)といい、俳人としての号が「早苗庵」である。資料はこの号にふりがなを添えて「知碩(ちせき)」と記す。『郷土の先覚者たち』のシリーズ親ページが見出しに掲げた「知何」は、くずし字・木版の判読をめぐる表記の揺れと考えられ、ここでは出典がふりがな付きで示す知碩の表記にしたがう。
知碩の生まれた中野は、遠州灘にほど近く、太田川が西を流れる砂地の村である。資料は、安政年間(1854〜1859年)の家並図におよそ90軒前後の家が並んでいたと記し、屋敷のうちに米倉を持つ家が何軒かあったとも伝える。知碩の生家にも倉があったとされ、農を生業としながら、いくらか余裕のある家であったらしい。海辺の村の一農家に生まれた人が、なぜ生涯を俳諧に注いだのか。その問いから、この人物の像が立ち上がってくる。
知碩は、年若いころから俳諧の道に入った。先輩格の加藤直吉(号・鳳嶺翁)に導かれ、塩井川原(今の掛川市東山口)に住む俳人・柿園嵐牛(かきえんらんぎゅう)の門をたたく。嵐牛は、松尾芭蕉の流れをくむ遠州俳壇の宗匠であった。知碩はその門で頭角をあらわし、後年には嵐牛門下でも有数の高弟、いわゆる「天王」の一人に数えられたという。東西にその名を知られ、数百人の人々を育てたと伝えられる。
独学と、夜を徹した俳諧修行
知碩がどこで学問の基礎を身につけたのかは、資料も決め手を欠いている。当時、福田や磐田の福王寺には寺子屋があったと伝わるが、中野村の子がそこへ通ったかどうかははっきりしない。村の西福寺・大泉寺は末寺で、本山の松秀寺にも寺子屋はなかったとみられる。家に「親から子へ」と伝える家学があったわけでもなさそうだ。資料は、状況証拠を一つずつ消していった先に、知碩はおそらく独学の人だったのではないか、という見方を示している。
その手がかりが、門人の足立湛水(あだち たんすい)が編んだ『知碩発句集』の序文にある。湛水はそこで、師の学びぶりを「耕余蛍雪、みずから学びて読書を渉猟(しょうりょう)すること博かりき」と書いた。農作業の合間に苦労して机に向かい、みずから進んで多くの本を読み、たいへんな博学であった、という意味である。学校制度の整う前の海辺の村で、一人の農夫が独学で教養を積み上げていった姿が、この一文ににじむ。
俳諧への打ち込みようを伝える話も残る。知碩は、思い立つととるものもとりあえず歩いて中野村を発ち、法多山をへて逆川(さかがわ)の上流近く、塩井川原の嵐牛のもとへ教えを受けに向かった。草鞋(わらじ)に履きかえ、夜を徹して通うことがたびたびあったという。その翌日の家の仕事や農作業がどうだったかは、資料も気づかってみせる。海辺から内陸の師のもとまで、一晩かけて山道を歩いて句を学ぶ——その執心が、後年の名声の土台になった。
江戸後期の在村俳諧という土壌
知碩のような人物は、江戸後期にあって決して孤立した例ではない。この時代、俳諧は都市の文人だけのものではなく、村々に広がっていた。点者(てんじゃ=句に点をつけて優劣を判じる指導者)や宗匠(そうしょう=一門を率いる師匠)を中心に、連衆(れんじゅ=句を詠み合う仲間)が集まり、月並(つきなみ=毎月の句会)や運座(うんざ=多人数で句をつくる会)を開く。農民や商人が、田畑や店の仕事のかたわら一句をひねる。そうした「在村文化」の厚みの上に、知碩の活動はあった。
師の柿園嵐牛は、芭蕉から続く正風(しょうふう)の系譜に連なる宗匠であった。芭蕉が「古池やかわずとびこむ水の音」で示したような、はなやかな技巧よりも、静かな自然をありのままに詠む姿勢である。知碩もこの流れを受け継ぎ、新奇な句や、はでな句を好まなかった。湛水は序文で師の人柄を「たいへん温厚で上品」と評し、花・鳥・風・月を深く愛して詠んだと記す。年齢を重ねるほどに気品が増したとも書き添えている。流行を追わず、身近な自然に向き合う——その作風が、知碩の俳諧の核にあった。
在村俳諧は、ただの趣味ではなかった。句会や運座は、村と村、世代と世代をつなぐ社交の場でもあった。知碩のもとには、近隣の多くの村から句が寄せられた。資料は、芝・一色・長溝・浅岡・豊浜・湊・富里・久津部・貫名・浅羽・松原・梅山・和口といった地名を挙げ、地元の中野からも35句が集まったと記す。海辺の砂地の村が、文芸を通じて広い地域とつながっていた。その結び目に、知碩という宗匠がいた。
句碑・俳額・発句集が残すもの
知碩の句は、いくつもの形で今に残されている。もっとも身近なのが、中野公民館(資料では福田町中野744番地)の前庭に立つ句碑である。盛り土の上に据えられた自然石で、幅およそ80センチ、高さ1メートルを超える。表には「日の入りの大げしきなり雲の嶺」の句が刻まれ、裏面には明治20年(1887年)の年号と、知碩を慕う社中(しゃちゅう=門人の集まり)の名が記されているという。道ゆく人の目をひく、村の文芸の記念碑である。
句は中野だけにとどまらない。磐田市見付の寺には、芭蕉・知碩・汀鴎(ていおう)三者の句を刻んだ句碑があり、知碩の句として「逃げて行く岬の雨や夏の月」が伝わる。中野の白山神社には俳額(はいがく=句を記して奉納する額)も残る。けやきの一枚板で作られ、たて85センチ・横1.5メートル、内側を金箔で二重に縁取った立派なもので、三句が彫り込まれている。そのうちの知碩の句は「つくらばや黄菊白菊とりまぜて」、明治31年(1898年)秋の作である。
白山神社の拝殿には、知碩が選者を務めた句を集めた額も掛かる。拝殿右側には「早苗庵選」と記して54句、正面には明治24年(1891年)9月3日の年記をもつ額に、知碩70代の作「この里は千代にかわるな秋祭り」を含む句が並ぶ。さらに、たて5メートル・横60センチほどの大額には104句が記され、大正12年(1923年)4月1日の奉納とある。これは拝殿の改築を祝うもので、知碩の死後20年あまりを経てなお、門人や村人が師を慕い続けていたことを物語る。
『知碩発句集』に残された四季の句
知碩がこの世を去った翌年、門人たちは師の遺詠を集めて一冊にまとめた。それが『知碩発句集』である。編んだのは門人の足立湛水で、明治35年(1902年)初夏に木版刷で出版された。春の部121句、夏の部93句、秋の部112句、冬の部81句、合わせて407句。海辺の村の一俳人が生涯に詠んだ句が、こうして紙の上にとどめられた。資料はその中から、こんな句を紹介している。
白露も手向きの数よたま祭り
産湯から光らせたもう仏かな
うぐいすや鳴かねばならぬ身のひねり ── 『知碩発句集』より(早苗庵知碩の句)
海辺の村に文芸が根づいた意味
遠州灘に面した福田・中野は、海のめぐみと砂の脅威がせめぎ合う土地だった。強い季節風が砂を飛ばし、田畑を埋める。漁は荒い海と隣り合わせで、暮らしには絶えず厳しさがつきまとう。そうした村に、なぜ俳諧という文芸が深く根づいたのか。これは、知碩一人の才能だけでは説明できない。
手がかりは、100軒前後の小さな村から35句もが寄せられたという事実にある。資料は、知碩の晩年に教えを受けた青年たちが、40を過ぎて一家の戸主となったころ、なお句を詠み続けていたと推し量る。村人が数人集まれば運座を開き、句をつくった。資料が中野を「優雅な里」と呼ぶのは、知碩の長年の教えがもたらしたものだという。厳しい自然と向き合う日々のなかで、句を詠むことは、暮らしに別の張りと潤いをもたらす営みだったのだろう。
農のかたわら独学で学び、夜を徹して師に通った一人の人物がいたこと。その人を慕う門人が育ち、世代を越えて句会が続いたこと。海辺の村の文芸は、誰か一人が与えたものではなく、村のなかで人から人へ受け渡されて根を張った。教育を寺子屋や学校の歴史だけで語ると、こうした文芸の積み重ねは見えにくい。知碩の俳諧は、海と砂のまちにも、たしかに豊かな精神の世界があったことを示している。
いまの福田中野とのつながり
知碩の血脈と教えは、その後の世代にも引き継がれた。資料は子孫についても触れている。二代目は史泉(しせん)と号し、浅羽の俳人の名簿に名をのせたが、48歳にならぬうち病で早世したという。三代目の加藤節二(せつじ)は、大正時代に小笠郡長を務めた人物である。郡長は地方の役人の長だが、節二もまた高等教育を受けてその職に就いたのではなく、独学によったらしい。曾祖父・知碩から続く「みずから学ぶ」という家風が、ここにも流れている。
知碩が生まれ、句を詠み、葬られた中野は、いまの磐田市福田中野である。法名「早苗庵徳翁知碩居士」をもつ知碩の墓は、村の西福寺にある。そして中野公民館の前庭には、いまも自然石の句碑が立つ。福田町は平成17年(2005年)に磐田市・竜洋町・豊田町・豊岡村と合併し、現在の磐田市となった。行政の名は移り変わっても、公民館の前の一基の石は、この地に俳諧を根づかせた人がいたことを、静かに伝え続けている。
知碩の辞世の句は、「月花の遊びどころやこの世界」であったと伝わる。月と花を友とし、自然のうつろいを句に詠んで生きた86年の、おだやかな締めくくりである。海辺の砂地の村に生まれた一人の俳人が遺したこの一句は、いまも福田中野の風景のどこかに、息づいているように思える。
参考資料
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。「2 郷土の俳人 早苗庵知碩」の項。
- 同書に引かれる 足立湛水 編『知碩発句集』(明治35年〈1902年〉初夏、木版刷)の序文・収録句。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。人物名は出典のふりがな表記にしたがい「知碩(ちせき)」を用いた。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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