LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ⑩
伊藤重平 — シラスを追った福田漁業の先覚者
- 人物
- 伊藤重平(いとう じゅうへい)
- 生没
- 明治41年(1908年)3月31日 〜 昭和41年(1966年)5月1日
- 生地
- 磐田郡豊浜村大島(現在の磐田市豊浜)
- 分野
- 漁業(シラス漁の動力船化・加工・活魚販売ほか)
- 関係地
- 福田漁港・遠州灘・太田川・焼津・御前崎
- 出典
- 『郷土の先覚者たち 第一集』(昭和55年・1980年)所収「10 シラスを追って」
海とともに生きた一人の漁師
伊藤重平は、明治41年(1908年)3月31日、磐田郡豊浜村大島に生まれた。父は伊藤熊吉、母はしの、その長男であった。幸浦尋常高等小学校を卒業すると、ほかの道を考えることもなく漁業に入った。昭和6年(1931年)4月17日に村田さのと結婚し、昭和19年(1944年)に3か月の教育召集を受けたほかは、生涯を漁師として送った。昭和41年(1966年)5月1日に58歳で世を去っている。経歴だけを並べれば、海辺の村にいくらでもいたであろう、一人の漁師の一生である。
だが資料は、その重平を「福田漁業の先覚者」と呼ぶ。彼を並の漁師から押し上げたのは、進取の気性と研究熱心さだった。漁に没頭しながらも、暇があれば漁具の研究を怠らず、とりわけエンジンの知識は豊かで、まるで機械の心を見透かしているかのように扱ったという。新しいエンジンを買うときも、普通なら見捨てるような中古品を持ってきては分解し、また組み立てていた。あまり中古品ばかりいじるので「ボロ車、ボロ重」とあだ名をつけられたと伝わるが、自分で納得するまで手を動かさずにはいられない性分が、のちの数々の工夫を生んでいく。
遠州灘とシラス漁
福田・豊浜が面する遠州灘は、めぐみと危険を同時に運ぶ海である。シラスは、イワシ類などの稚魚で、遠州灘ではこの海域でとれる代表的な水産物だった。福田町のシラス漁は、もともと浜から網を引く地引網によるものである。長い伝統を持つ漁法だが、欠点もあった。地引網ではどうしても砂が多く混じり、食味や市場価値が低くなりがちだったという。船で行うにしても小さな船で、漁法も手たぐりに頼ったため、生産性は高くなかった。
海そのものも穏やかではない。遠州灘の漁師にとって、強い季節風と荒天はつねに隣り合わせだった。そうした海を相手に、限られた道具と人手でシラスを追っていたのが、重平が漁を覚えたころの福田であった。この「いかにも砂が多い」「生産性が低い」という地引網の限界を、どう超えるか。重平の工夫は、まさにここから始まる。
手たぐりから動力船へ ── 漁の近代化
重平が最初に試みたのは、動力船でシラス網を引くことだった。いわゆるトロール漁法である。さっそく実行してみると、なかなかの好成績だった。当時、シラスはソウダガツオ釣りの餌(えさ)としての需要もあり、舞阪方面のシラス漁からヒントを得て加工も盛んになると、需要の幅は広がっていった。重平はかなり熱中して取り組んだという。
ところが、思わぬ壁にぶつかる。当時は五寸目(15センチ四方ぐらい)以下の網を動力船で引くことが禁じられていたのである。重平は、シラス網は末端を除けば網目が大きいので構わないだろうと考えて漁を始めたが、密告する者もあり、警察に呼ばれて苦労したらしい。それでも、動力船でシラス網を引く漁は、その後しだいに一般化していった。一人の漁師の試みが、やがて福田全体の漁のかたちを変えていったことになる。
探究心はそこで止まらなかった。動力船でトロールを始めても、網はまだ大人が一抱えで持てる程度の大きさである。より効率のよい漁法はないかと考えるうち、二そうの船の間に大きな網を張って引く方法に行き着いた。御前崎へ大型の網を注文し、いまでいう「二はい引き(二そうで引く)」を始めたのである。
この二はい引きが、現在の福田のシラス漁の型になった。漁港へ行けば、同じ船名を持つ大小の船が仲よく並んでいる姿が見られるという。網も、かつては一抱え程度だったものが、二はい引きになってからは一トントラックでも運べないほど大きくなった。さらに動力船を活かして、白魚(しらうお)漁やアミ海老(えび)漁にも手を広げたと伝わる。手漕ぎや帆に頼っていた村の漁が、一代のうちに近代の漁業へと姿を変えていった。
とったシラスを活かす ── 加工と流通の工夫
重平の工夫は、とる段階だけにとどまらなかった。漁獲したシラスのほとんどは「シラス干し」として売られたが、彼はこの加工の工程にも手を入れた。当時、シラスを乾燥させるときは、地面にむしろを敷き、その上に並べて干していた。これでは雨が降れば作業ができず、しかも地面が乾かなければ作業能率が落ちる。乾燥の良し悪しが天候に大きく左右されたのである。とりわけ梅雨どきは、加工業者にとって、てるてる坊主にでもすがりつきたいほどの悩みの種だった。
そこで重平は、シラスを家の中に入れ、紫外線を当てながら扇風機であおって乾かすことを思いついた。思い立ったら実行せずにはいられない性分で、たちまち装置を仕上げてしまう。意気揚々と作業にかかったところ、突然「バーン」と大音響が響き、何かが壁に激突した。見れば、天井でまわっていた扇風機のシャフトが焼けてねじ切れ、飛んでいったのだった。失敗はしたが、こうした試行錯誤の末に、シラス干しの生産能力は飛躍的に高まったという。
売り先にも工夫を凝らした。漁獲した鮃(ひらめ)などを生け簀(いけす)に蓄え、活魚として売ることも始める。生け簀には、豊浜橋の下に用意した屋形船の廃船を利用した。最盛期にはかなりの量の魚を活かしておいたようである。販路も、値のよい遠く三河方面まで考え、早朝にタクシーで磐田へ出て一番列車に乗り、市場へ間に合わせる努力をした。当時の太田川は水も澄み、その美しい水の中でたくさんの魚が泳ぎまわる姿が想い浮かぶような話である。手漕ぎ船では考えようもなかった遠く久能山沖まで出かけたとも伝わる。
漁の外へ ── 活魚・鮫漁・風車
餌をめぐる苦労も、重平らしい逸話を残している。鮫(さめ)漁を手がけた人もいたが、餌にはサバの切り身を使う。ところが戦時中のこととて、サバはなかなか手に入らない。そこで焼津港所属の漁船と提携して餌を確保し、鮫を釣っては焼津に向かった。焼津を夜中の12時ごろに出発し、帰ってまたすぐ漁に出るという強行日程もしばしばだったという。重平は好きな酒をあおって機関室でいい気持ちに寝てしまい、弟の玉次郎が舵をにぎって帰ってきたこともあったらしい。酒は朝から晩まで飲んでも飽きないほどで、飲み過ぎて入院する羽目になったこともあると伝わる。
漁業の外にも、その才能はおよんだ。代表が風車の考案である。太田川から西の田は、井戸水をはねつるべで汲み上げており、用水が整った今から見れば、夏の田の水替えは大仕事だった。重平はその労力を減らそうと、水を風車で汲み上げることを思いつき、最盛期には50ほどの風車が並んだという。近所の鉄工所の協力を得て、風の強弱に合わせて帆の大きさが変わる工夫まで重ねた。これは田の灌漑だけでなく、温室の井戸水を汲み上げるのにも使われ、太田川の横で幾つもの風車がくるくる回る光景は、ちょっとした風物詩だったと記される。
晩年には、水産学者との交わりも深かった。戦後、数人の学者と協同で、イシナギの肝臓からビタミンを抽出する実験を行ったこともある。実験そのものは成功したものの、イシナギは多くとれる魚ではなく、企業化までは進めなかった。それでも一人で沖釣りに出ては、珍しい魚が釣れるとホルマリン漬けにし、浅羽・豊浜、さらには磐田から夫婦で赴任していた先生を通じて、水窪の小学校へも寄贈していたという。海を究めようとする好奇心は、最後まで衰えなかった。
福田漁港といまのシラスのまち
国道150号線を太田川橋の東で折れ、南へ向かうと、遠州灘に面した福田漁港に出る。重平が試行錯誤を重ねたころとは違い、いまでは整った港から、力強くエンジンの音を響かせて何艘もの船が出漁していく。船のほとんどはグラスファイバー製となり、魚群探知器を備え、無線を装備している。手たぐりの地引網からここまでの道のりに、重平のような先覚者の工夫が積み重なっている。
シラスは、いまも福田・豊浜を語るうえで欠かせない。とる漁法、釜揚げや干物への加工、市場への流通、その一連の出発点に、規制とぶつかりながら動力船を走らせ、扇風機を焼き切りながら乾燥を工夫した一人の漁師がいた。福田が漁業のまちであり続けられたのは、海の荒さや砂の混じりという土地の難しさを、知恵で一つずつ越えていった人びとがいたからである。『郷土の先覚者たち』が伊藤重平を書きとめたのは、その積み重ねの記憶を、まちの財産として残そうとしたからにほかならない。
参考資料
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。所収「10 シラスを追って ── 福田漁業の先覚者、伊藤重平の業績 ──」。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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