LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ⑤
伊藤五郎 — 砂と松、豊浜海岸を守った砂防の人
- 人物
- 伊藤五郎(いとう ごろう)。生家は内野家、のち伊藤家へ養子。
- 生没年
- 安政5年(1858年)3月20日 〜 大正11年(1922年)、享年64。
- 関係地
- 豊浜村豊浜(現在の磐田市豊浜)。豊浜海岸・前川・東川・太田川流域。
- 分野
- 海岸砂防(飛砂防止・砂防堤・海岸松林)、農業・漁業、食酢醸造。
- 出典
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)。
海を見つめる像 ── 伊藤五郎という人
伊藤五郎は安政5年(1858年)3月20日、豊浜村豊浜151番地、内野兼吉の三男として生まれた。17歳のときすぐ近くの伊藤幸次の家に養子に入り、20歳で妻きくと結婚している。結婚は明治11年(1878年)。幕末に生まれ、明治への大きな転換期に多感な少年期・青年期を過ごした世代である。
資料が描く五郎は、少年のころから体格がよく、よく働き、何かを工夫したり作ったりするのが得意な人だった。口数は少なく、きつい顔つきをしていたので村人には怖がられたが、実際は気のやさしい、意志の強い人だったと伝えられる。海と砂に向き合うこの章のあとの仕事は、すべてこの「工夫する働き者」という性質の延長にある。
家業は農業・漁業のほか、酒の卸と小売も営んでいた。明治22年(1889年)には食酢の醸造をはじめ、その製品の評判がよく「五郎酢屋」と呼ばれて繁盛し、遠く東京や伊豆方面へも売られたという。商いに手を広げ、山林への投資や火災で当時の金で2万円ほどの損をした時期もあったと記されるが、それでくじける人ではなかった。次に五郎が向かったのが、海岸近くの荒地の開拓である。
飛砂と水害 ── 海辺の村の苦闘
遠州灘に面した豊浜にとって、海はめぐみであると同時に、絶え間ない脅威でもあった。強い季節風が吹けば、砂が飛び舞う。当時の海岸は高い砂山と陸地の境がはっきりせず、太田川も今のように改修されていなかったので、大雨が降れば川以外の低い所も自由に流れて、しばしば大水に見舞われた。家財道具を運び出し、近くの大木の根に避難したという話も資料に残る。
五郎も農業をやっていたから、その苦しみを身でわかっていた。農家が一生懸命に作った作物も、一度の台風で全部流されてしまう。彼はそれを何度も経験し、どうかしてこの海水の浸入を防ぐ方法はないかと考えるようになった。飛砂と水害は、ひとりの不運ではなく、海辺の村ぜんたいが代々背負ってきた課題だった。福田・豊浜の海岸の暮らしは、この砂と水とどう折り合うかという一点に、ずっと縛られていたのである。
五郎は、海岸砂防や川の改修、河川の氾濫など、災害を防ぐことに心をくだいていた福田村の寺田彦太郎・彦八郎父子のもとに通った。教えを乞いながら、互いにどうしたら良いかを相談し、日夜を過ごしたと記される。このシリーズで「ならい波」と幕末の庄屋として登場する寺田家と、豊浜の漁夫・五郎とが、同じ海の課題を介してつながっていたことになる。河川名の一部には判読に迷う箇所があり、表記は[要確認]とする。
藁で砂を留める ── 砂防堤づくりという仕事
とはいえ、大勢の人を雇って堤防を造り、高い賃金を払うとなれば、ばく大な費用がかかる。とても個人の手に負えるものではない。そこで五郎が考えたのが、自然の力を利用するという方法だった。強い風が吹くと砂が飛び、その砂は何かの障害物のところに自然に集まって高くなる。ならば、人を雇わずとも風に砂を運ばせればよい、と気づいたのである。
五郎は、砂防堤を造りたい位置に、東西に長く藁を差し込んだ。風に吹き飛ばされた砂が藁のところに吹き寄せ、少しずつ高くなる。それを繰り返す。はじめのうちは砂山が低いため、村人の言うとおり、たびたび風や波に流されて失敗もした。それでも五郎は「必ず成功する」という信念のもとに、これを続けた。
最初に手伝ったのは、ごく一部の人ばかりだったという。だが砂山が形になり、五郎の考えの正しさとその根気が見えてくると、しだいに村人がついて来るようになり、協力を惜しまなくなった。五郎をはじめ村人たちは、無給の奉仕でこの作業を続けた。費用をかけず、海辺の村が自分たちの手で、自分たちの土地を守る。そういう砂防のかたちが、ここで生まれた。
松を植え、畑を分ける ── 世代をまたぐ営み
根気よく続けた砂山は徐々に高くなり、砂防堤らしくなっていった。その甲斐あって、大正10年(1921年)ごろには相当な高さの、立派な砂防堤になった。五郎はそこに一面、松の木を植えた。資料はこれを指して、「現在のみごとな松林がそれです」と記す。海岸の松林は、もともとそこにあった風景ではなく、藁と砂と松を、人が何年もかけて積み上げた人工の林だったのである。
砂防堤の完成によって、それまでのような海水の浸入による被害はなくなった。五郎は守られた一帯の砂地を開墾整理し、村人たちに平等に割り当てた。自分のために余計な土地を取るようなことはしなかったという。もともと豊浜は土地の少ない村だったので、この畑は、第二次世界大戦の戦中・戦後の食糧難の時代に、村をどれほど助けたかしれない。五郎が育てた砂防と畑は、彼ひとりの世代では終わらず、数十年のちの村の暮らしまで支えたことになる。
飛砂を松林で抑え、波を砂防堤で防ぎ、生まれた土地をみなで分ける。一代では報われにくいこの種の仕事を、信念だけで押し通したところに、五郎の砂防功労者としての意味がある。海岸林は、いまも遠州灘沿岸のあちこちに連なるが、その一本一本に、こうした手の記憶がこめられている。
投網とおじいちゃん ── 慕われた人物像
五郎には子どもがなかった。そのためか、よく子どもを可愛がり、「これからは学問ができなくてはだめだ」とよく口にしたという。生家の孫が見付(現在の磐田市)の高等小学校へ通うのをいやがったときには、「学校から帰って来たら、いい褒美をやるから、うんと勉強してきなさい」と励まし、帰って来ると「偉かった、偉かった。今日は何を習ったね。そうか、また明日も行きなさい」と声をかけた。褒美は清酒一合だったというから、今からは想像もつかない時代の話である。少年はそれを楽しみに学校へ通い、のちに村のために尽くす人になったと資料は結ぶ。
夕方には孫たちを集め、自分は酒を飲みながらおもしろい話をし、孫たちの口にさしみや豆腐を入れてやって、一緒にひとときを楽しんだ。きつい顔つきの奥に、こうしたやわらかさを持った人だった。酒の小売もしていたので、村人が店先で一杯飲んでいるときには、奥の座敷に黙って座っているだけのことが多かった。「五郎おじいが居ると酒がまずい」と言われても気にせず、いつも何かを一人で考えていたという。
五郎は投網を非常に好み、たいへん上手だった。像が左手に投網を持っているのはそのためである。晩年は投網を持って孫を連れ、自宅近くの東川から舟に乗り、南へ下って前川へ出て、投網を打ちながら海岸へ向かった。とれた魚をその場で料理して弁当を食べ、木の枝や流木(資料は「コアシ」と記す。当時の大切な燃料だった)を拾って帰るのを、日課のようにしていた。砂を相手に村を守った人の、もうひとつの顔である。
いまの豊浜海岸へ ── 残る松林と像
五郎は、自分が育てた砂防堤の松が美しく成長し、整然とした耕地になっていく姿を見ることなく、大正11年(1922年)に64歳で急逝した。砂防堤が「立派な松林」と呼べるまでに育ったのは、彼の没後のことである。種をまいた人が、その実りを見届けられないというのは、世代をまたぐ砂防の仕事にしばしばつきまとう宿命でもある。
豊浜海岸、国民宿舎「ふくで荘」と豊浜漁港から東へ、広々とした畑地がひろがり、南には松並木の砂防堤が東西に緑を延ばしている。その畑と松林をみつめるように、右手を額にかざし、左手に松を持った高さおよそ4.5メートルの像が、前川橋のたもとの排水場の一角に、堂々と南を向いて立っている。これが伊藤五郎の像である。像が造られた昭和7年(1932年)当時は、まだ砂防堤の松が低かったので、この高さからは海が見えたと伝えられる。
福田・豊浜のシラスや温室園芸、別珍織物といった産業も、もとをたどれば、波と砂から守られた土地のうえに成り立っている。海岸の松林と砂防堤は、いまも遠州灘沿岸の暮らしを支える土台であり続けている。それを「自然の景色」としてではなく、五郎のように砂と向き合った人びとの仕事として読み直すとき、豊浜の海岸線は少し違って見えてくる。
参考資料
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。「5 荒波から土地を守った 砂防功労者 伊藤五郎の生涯」の項。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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