LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ⑦
川島直次郎 — 旧於保地区を担った名村長
山梨から遠州へ、婿養子に入った青年
川島直次郎は、明治4年(1871年)4月8日、山梨県西八代郡上野村の網倉家に生まれた。学問が好きな子どもだったが、家の事情で高等小学校を出ただけで、それ以上の学校には進めなかったと資料は記す。学歴は短いが、本を読み、字を書くことへの傾きは生涯消えなかった。
転機は明治27年(1894年)、日本と清国の関係が険悪になっていたころに訪れる。県議会議員として静岡県を訪れていた川島瀧蔵という人物が、容姿端正で熱心に働くこの青年を見かけた。瀧蔵はちょうど娘の婿を探している最中で、青年の身元を調べたうえで、家の婿養子として迎え入れたという。こうして山梨の網倉直次郎は、遠州の川島直次郎となった。時に23歳である。
生まれ育った土地ではなく、縁あって入った村で生きるということ。直次郎の村政は、その「よそから来た者」が地域に根を張っていく過程でもあった。岳父・瀧蔵の死後、直次郎は瀧蔵が住んでいた家へ移り、県議会議員の道を継ぐのではなく、村に腰を据えた。明治34年(1901年)、於保村の村長に推される。ここから、半世紀におよぶ村との関わりが始まる。
明治の町村制と「村長」という仕事
直次郎が村長になった明治の終わりごろは、いまの市町村制度の骨格ができたばかりの時期だった。明治22年(1889年)に市制・町村制が施行され、それまで自然にまとまっていた村々が、町村として法律のうえで定められた自治の単位になった。村には村会が置かれ、村長は村会や有力者の信任のもとで村政を担った。給料を目当てに就く職というより、地域の世話役を引き受けるという性格が強い。名望のある人物が請われて村長になる、いわゆる名望家による村政の時代である。
直次郎の村長としての歩みを一口に言えば、長くかつ厚いものだった。明治34年(1901年)に村長となってから、大正・昭和へとかたちを変えながら、表に立つときも裏で支えるときも、村の運営に関わり続けた。資料の略歴をたどると、於保村の助役・村長・農会長をはじめ、信用組合・産業組合・水産会といった村の組合の要職、さらには磐田郡や静岡県の農会・産業組合の役職まで、その名が並ぶ。村の議員生活は、通算で四十年近くに及んだという。
これだけの役を担いながら、直次郎自身が手にした金銭は多くなかったと資料は強調する。表立った肩書きの数より、無私であったことのほうに筆が割かれている。村の世話を引き受けるとはそういうことだ、という当時の自治の感覚が、この人物像からは伝わってくる。
まず教育を ── 学校づくりへの傾注
村長となった直次郎が、まっさきに心を傾けたのは教育だった。自分自身が、学問を好みながら高等小学校を出ただけで終わった負い目があったのだろう。村の教育の充実に、人一倍の力を注いだと記される。於保村に小学校を整え、町村合併後の学校づくりにも関わり、後年には青年学校・実業補習学校といった、学校を出たあとの若者の学びの場にも目を向けた。卒業した若者がそれぞれの職に就いていけるように、という現実的な思いがそこにはあった。
直次郎は字をよくし、書をたしなんだ人でもあった。漢学に深く親しみ、漢詩もよくしたという。子どもの習字の手本を自分の手で書き、村の子に教えることをいとわなかった。公務で多忙な身であっても、習字を教える時間は惜しまなかったと伝えられる。村人のあいだでは、子どもが使う習字の手本までもが「直次郎の書」だと語られたという。
そして、その教えに貧富の区別を持ち込まなかった。豊かな家の子にも、そうでない家の子にも、分け隔てなく字を教えた。学校制度が地域に根づいていく時期に、村長という立場の人が、こうして一人ひとりの子どもの手もとにまで関わっていた。教育とは制度であると同時に、誰かが手をかけて手渡すものでもある、ということを、この逸話は思い出させる。
農業の改良と組合づくり
教育への意気込みと同じだけ、直次郎は農業の改良と振興に力を入れた。資料が「旧於保地区」と記すこの村は、南が遠州灘に接する立地で、村の暮らしの土台は農にあった。直次郎は、村の発展のためには農業の指導と改良が要だと考え、米作・麦作のとり入れの工夫など、作物の改良に長く取り組んだ。
昭和に入ってからは、新しい園芸にも目を向けている。全国に声価の高い温室メロンの栽培を村に取り入れ、村の産物として育てようとしたと記される。砂地に近い土地条件のなかで、米麦という基本作物を固めつつ、付加価値の高い作物にも挑む。海と砂地のうえで暮らしを立てる村らしい、地に足のついた産業の工夫だった。(太田川の水を利用した用水・漁港の整備に関わったとする記述もあるが、判読に迷う箇所があり[要確認]とする。)
直次郎の仕事のなかで、後の時代にいちばん残ったのは、組合づくりだったかもしれない。彼は村に信用組合を起こし、産業組合の安定に力を尽くした。これらは、現在の農業協同組合(農協)の基礎となる、しっかりとした地盤になった。一人の有力者の働きが、制度として地域に定着していく ── 直次郎の自治は、その典型のような歩みだった。
合併へ向かう村と自治の記憶
直次郎は、ふだんは質素・倹約を旨とし、自分の身なりも飾らない人だった。ところが村長として公の場に出るときには、別人のように威儀を正した。ある日、所用で出かける直次郎が、モーニングを着てシルクハットを手にした正装で現れ、村人が「村長としての姿だ」と見直したという逸話が残る。立場と場所に応じてふるまいを整える、という筋を通した人だった。
その筋は、暮らしぶりにも貫かれていた。「居は人の心を移す」を信条とし、家の外へ出るときはもちろん、家の中でも一生涯あぐらをかくことをしなかったという。事に臨んでは十分に調べ、周到に準備して当たり、人には諄々と説く、きわめて温厚な人物だったと記される。信念は曲げないが、声高に押しつけはしない。名望家による村政の時代に、村人の信頼を長く集め続けた人柄が、こうした逸話からうかがえる。
直次郎の村政は、戦後の村長職にまで及んだ。村会議員・村長を重ね、磐田郡や県の農業・畜産の組合の役職も担いながら、村の戦後復興に関わった。やがて昭和30年(1955年)3月13日、85歳でその生涯を閉じる。村人は彼の功にむくいるため、同年3月20日、於保小学校の校庭で盛大に葬儀を営んだという。村が一人の村長を、自分たちの手で送り出した。村が自分たちで村のことを決めていた時代の、最後の見送りでもあった。
いまの磐田市域のなかで
直次郎が長く担った村は、その後の市町村合併を経て、現在は磐田市の一部になっている。資料は一貫して「旧於保地区」と記しており、その村が現在どの範囲にあたるかをここで断定はしない。ただ確かなのは、いまの行政区画の手前に、村会と村長で自分たちの村を運営していた時代があり、川島直次郎のような人物がその実務を半世紀近く支えていた、という事実である。
福田町は、平成17年(2005年)に磐田市・竜洋町・豊田町・豊岡村とともに合併し、現在の磐田市となった。合併によって村や町の名は地図から消えても、教育の場を整え、農業を改良し、組合という形で次の世代に残る仕組みをつくった人びとの積み重ねは、地域の土台として残っている。『郷土の先覚者たち』が直次郎を「名村長」として一冊にとどめたのも、その積み重ねを忘れまいとしたからだろう。山梨から来た一人の青年が遠州の村に根を張り、その村政を生き切った歩みは、いまの磐田市域に確かに連なっている。
- 人物
- 川島直次郎(かわしま なおじろう)。旧姓・網倉。
- 生没
- 明治4年(1871年)4月8日 ── 昭和30年(1955年)3月13日。85歳[数え。要確認]。
- 出身
- 山梨県西八代郡上野村。23歳のとき川島家の婿養子となり遠州へ。
- 関係地
- 資料が「旧於保地区」と記す村(現在の磐田市域)。
- 分野
- 地方自治(村長・村会議員)、教育、農業改良、信用組合・産業組合。
- 出典
- 『郷土の先覚者たち 第一集』(福田町教育委員会、1980年)所収「7 旧於保地区の名村長、川島直次郎」。
参考資料
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。「7 旧於保地区の名村長、川島直次郎」および巻末「川島直次郎 略歴」。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
この地域の家・土地・空き家について
地域の記憶を読むことは、いま残る家や土地のこれからを考える入口にもなる。福田・豊浜・於保のまわりで、相続した家、空き家、使わなくなった土地の整理に迷う場合は、地域の事情を踏まえて相談できる窓口を用意している。
家・土地・空き家の整理について相談する