LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ④
漢学一筋に生きた在村の学者
── 「御隠居様」と呼ばれた人
- 呼び名
- 萬吉様の御隠居様/東古様の神隠居様(資料の表記による)
- 名
- 大竹温(読み[要確認])。幼名は太吉、また太助。明治4年(1871年)に戸主となり三代目萬吉を継ぐ。号は蒋運、雅号は松籟。
- 生没
- 安政4年(1857年)9月10日生まれ/昭和27年(1952年)3月6日、96歳で没す。
- 分野
- 漢学・漢詩(在村の学者・私塾的な指導)
- 関係地
- 遠江国山名郡福田村(現在の磐田市福田)/京都・東京での修学
- 出典
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』(昭和55年・1980年)
「御隠居様」と呼ばれた学者
資料がこの人物を紹介する見出しは、「漢学一筋に生きた 萬吉様の御隠居様」である。本文では「萬吉様の御隠居様」「東古様の神隠居様」という二つの呼び名が並べて記されている。村のなかで、ある家の隠居がただ「御隠居様」を超えて「神隠居様」とまで呼ばれることは、ふつうではない。学問の深さと、暮らしぶりの厳しさが、村人の敬意を呼んだのだろう。
正式な名は大竹温(読みは[要確認])。幼名を太吉、また太助といい、明治4年(1871年)に戸主となって三代目萬吉を継いだ。それゆえ村では家の名でもある「萬吉様」と呼ばれ、隠居してからは「萬吉様の御隠居様」となった。号を蒋運、雅号を松籟といい、晩年に建てた書斎兼私塾は「松籟軒」と名づけられた。法名も「松籟軒釋蒋運」[要確認]として伝わる。
大竹家は、もともと文事に縁の深い家だった。父は大竹春谷(はるたに)[読み要確認]といい、天保2年(1831年)の生まれ。春谷の兄、つまり萬吉から見て伯父にあたる大竹晴笠(せいりつ)[読み要確認]は、松尾芭蕉の流れを汲む俳人・伊藤嵐牛(いとう らんぎゅう)の高弟「四天王」の一人に数えられ、中野村の加藤知碩[要確認]らと並んで各所で句の選者を務めた人物だったと記される。和歌や俳句が身近にある家に育ったことが、温が学問と文芸の道へ進む素地になっていた。
漢学・漢詩とは何だったか
ここで、温が打ち込んだ「漢学」「漢詩」がどのようなものだったかを、一般的な背景として確認しておきたい。漢学とは、中国の古典である四書五経をはじめとする漢籍を読み解く学問である。江戸時代から明治にかけての日本では、武士の教養の柱であり、村の有力者や寺の僧、医者などにも広く根を張っていた。子どもはまず先生の声に続いて本文を声に出す「素読」から入り、意味の解釈、作詩・作文へと段階を上がっていく。
漢詩は、その漢学の素養の上に咲く花のようなものだった。決められた字数と韻律にしたがって漢字を連ね、景色や心情を詠む。新聞や雑誌に投稿欄が設けられ、各地の漢詩人がたがいの作を選び合う「選者」という役割もあった。温は後年、各地の新聞・雑誌の漢詩欄で選者を務め、多くの漢詩の著書を残したと記される。村の隠居が、地方紙の文芸を支える書き手の一人でもあったのである。
漢学は、近代の学校で教える国語や算術とは別の系統の学問だった。学制が敷かれて小学校が広がっても、漢学の素養は知識人の証であり続けた。温が「日本の漢学者の第一人者」とまで資料に評されるのは、その世界での評価の高さを、村が誇りに思っていたからだろう。表現の大きさはそのまま受け取れないとしても、村にとってこの人がどれほど特別だったかは伝わる。
漢学を究めるには、ふつう何人もの師を訪ね歩いた。一人の先生から経書の読み方を、別の先生から作詩の作法を、また別の先生から書を学ぶ。資料が温について、漢詩を学んだ師、経史を学んだ師、書を学んだ師の名をそれぞれ挙げているのも、この学びの形を映している。本を一冊読み切れば終わりというものではなく、師から師へと渡り歩き、十数年をかけて身につけていく長い修業だった。海辺の村に生まれた少年が、笠井から京都、さらに東京へと学びの場を広げていったのは、その道をとことん歩こうとしたからである。
福田に生まれ、京と東京に学ぶ
温が生まれたのは安政4年(1857年)。資料の年表によれば、伊豆韮山に江川太郎左衛門が反射炉を完成させた頃で、幕末から明治への大転換期にあたる。元治元年(1864年)、わずか7歳で漢学を志したという。慶応元年(1865年)に常磐応斎[要確認]に学び、明治3年(1870年)、17歳のときには笠井町(現在の浜松市方面)の小薮松齋[要確認]について漢詩を学んだと記される。海辺の村の少年が、近隣の漢学者のもとへ通って学んでいたことになる。
明治4年(1871年)、父・春谷の隠居にともない戸主となり、三代目萬吉を継いだ。学問への志はそこで止まらなかった。やがて京都へ移って谷如意翁[要確認]に師事し、漢詩・漢学に精進する。書を古田桂所[要確認]に、経史を学び、さらに小野湖山の門に入ったとも記される。小野湖山は幕末から明治にかけて全国に名を知られた漢詩人で、その門下に連なったとすれば、温が中央の学問の世界へ確かに足を踏み入れていたことを示す。
資料はさらに、東京に出て漢学・漢文学を研究するかたわら、勝海舟や山岡鉄舟と交わったとも伝える。西南戦争(明治10年・1877年)の頃、向学心に燃える青年にとって、時代の動きそのものが刺激だっただろう。京都・東京での修学は「苦節十八年」に及んだと記される。一つの学問に十数年をかけてこもり、究めようとした人だった。
学問に律した暮らし
この冊子がほかの人物紹介と少し違うのは、温の日々の暮らしぶりを、家族の証言らしき言葉でこまかく書き残している点である。学問の中身だけでなく、生活そのものが村人の記憶に刻まれていた。
寝るときには自分で灯をともし、人にたよらない。自分の部屋は必ず自分で掃除し、家族の者が手を出すことを許さなかった。外出のときも、教えを乞う子弟がいれば数分の用でも応じる。資料は、もうけ主義とは無縁の、きびしくも筋の通った人柄として描いている。食事は質素で、朝食と昼食を兼ねた一回と、夕方の食事ほどに切りつめ、茶碗一杯ほどの飯に一汁一菜、牛乳といった内容で、健康に気を配っていたという。「父さんは熱心で、酒に酢を落として食べられた」といった、子の口ぶりらしい一節も添えられている。読み取りに迷う箇所もあるが、自分に厳しく学問に律した暮らしぶりが伝わってくる。
京都に住んでいた時期には、京と福田のあいだを行き来し、近隣の子弟を集めて教えたとも記される。学者として中央に身を置きながら、郷里の村とのつながりを切らなかった。この往復が、のちに「御隠居様」として村に迎え入れられる土台になったのだろう。
学校とは別系統の「学び」
明治5年(1872年)の学制発布によって、村々に小学校が置かれていく。だが、温が体現したのは、その学校教育とは別の系統の「学び」だった。先生のもとへ通い、漢籍を素読し、詩や書を学ぶ。そうした漢学の私塾的な学びは、近代の学校が広がってからも、知識人をめざす者の道として残り続けた。
晩年、昭和3年(1928年)に郷里福田へ帰った温は、自宅に「松籟軒」を建て、近隣の門人たちを指導した。資料には、鈴木藤吉郎、桜井又作[ともに要確認]ら、教えを受けに集まった人びとの名が記される。月謝をとって学校のように教えるのではなく、学びたい者が学者のもとへ通うという、古くからの私塾の形である。福田の村に、こうした漢学の場が昭和の初めまで生きていたことになる。
温の筆は、村のなかにも跡を残した。六社神社に奉納された額の文字は「福田町の大竹松齋[要確認]の手による」と伝えられ、書をよくする学者として各所に筆跡を求められた。和歌にも親しんだという。学問・漢詩・書・和歌が一人の在村の学者のなかで結びついていたことが、海辺の村の文化の厚みを物語る。
福田の教育史のなかで
この冊子には、教育と学問に関わる人びとが何人も登場する。明治の学制より前から村で寺子屋を開いた大庭八郎助。学校が根づく時期に教育へ生涯を注いだ寺田范三。和歌や俳句を地域で教えた早苗庵知何。そして、漢学を究めた大竹温。福田の学びは、寺子屋・漢学・俳諧・近代学校という、いくつもの系統が重なり合って成り立っていた。
遠州灘に面し、太田川がはこぶ砂と向き合ってきた福田・豊浜は、海と砂地の労働で暮らしを立てる村だった。漁業や農業の汗のかたわらに、漢学を十数年も究める人がいて、その人を村が「神隠居様」と呼んで敬ったという事実は、この海辺の村が学問を軽んじなかったことを示している。砂を相手にする厳しい暮らしのなかで、子に学を授け、次の世代へ知を手渡そうとした営みが、福田にも確かにあった。
温という人を、たんに「立派な学者がいた」という話で終わらせたくはない。家にこもって本を読む人は、村の経済に何かを生み出すわけではない。それでも村は、その姿を惜しまず迎え、隠居の身に最大級の敬称を贈った。学問そのものに価値を認める空気が、漁村にもあったということである。寺子屋で読み書きを覚え、漢学で古典に親しみ、やがて学校で近代の知に触れる。系統は違っても、いずれも「学ぶことは尊い」という同じ根から伸びている。温の生涯は、その根が福田の地にどれほど深く張っていたかを示す一本の証しだといえる。
昭和27年(1952年)、温は96歳で世を去り、磐田市満徳寺[要確認]に眠ると記される。福田町は平成17年(2005年)に磐田市・竜洋町・豊田町・豊岡村と合併し、現在の磐田市となった。学校制度の整備とともに語られがちな福田の教育史の手前に、家にこもって学問を究めた一人の「御隠居様」がいたことを、この冊子は思い出させる。
参考資料
- 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。第4項「漢学一筋に生きた 萬吉様の御隠居様」および巻末「大竹温 略歴」による。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号・呼称は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所や読みの確証を欠く箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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