失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
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LOCAL HISTORY | 福田・豊浜・於保の人物史

福田町『郷土の先覚者たち』を読む
── 海と砂地と教育を支えた人びと

福田、豊浜、於保、遠州灘沿岸の暮らしを支えた人びとの記録を、現在の磐田市南部の地域史として読み直す。教育、砂防、漁業、織物、温室栽培、地方自治という生活に近いテーマから、海と砂地にひらかれたまちがどう形づくられてきたかをたどる。手がかりにするのは、福田町教育委員会が昭和55年(1980年)に発行した人物史冊子『郷土の先覚者たち 第一集』である。
本ページは、公開資料・地域資料をもとに磐田物語が独自に整理した地域史コンテンツであり、行政機関の公式ページではない。原資料の本文をそのまま引き写したものではなく、内容は独自の言葉で再構成している。人名・地名・年号は資料と巻末正誤表で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記して残した。
遠州灘 砂丘・松林(海岸砂防林) 福田 豊浜 於保 太田川 遠州灘沿岸と太田川流域の村々
位置関係を示す模式図(磐田物語による自作。縮尺は正確ではない)。福田・豊浜は遠州灘に面し、背後に砂丘と海岸の松林が広がる。太田川が西側を流れ、於保は資料が一群として扱う村のひとつである。

この資料について

『郷土の先覚者たち 第一集』は、福田町教育委員会が昭和55年(1980年)11月15日に発行した人物史の冊子である。編集にあたったのは福田町史編纂委員会で、巻頭には福田町長・寺田徳一の序、教育長・木野孫六の発刊のあいさつが置かれ、巻末は編集委員長・加藤正のあとがきで結ばれている。発刊のあいさつには、町制施行25周年の記念事業のひとつとして、各分野の人物を選んで編んだという経緯が記されている。

取り上げられているのは、福田の発展に関わった11の項目の人びとである。教育に力を注いだ人、海岸の砂を相手に土地を守った人、織物や温室栽培という新しい産業に挑んだ人、戦後の自治を担った人。一人ひとりの肩書きはばらばらに見えるが、並べてみると、遠州灘という海と、太田川がはこぶ砂地のうえで暮らしを立ててきた村の姿が浮かんでくる。福田・豊浜・於保という現在の磐田市南部を考えるとき、この冊子は地域の記憶への入口になる。

掲載された11人

冊子の目次にそって、11の項目を一覧にした。見出しは資料の表現を尊重しつつ、主題が伝わるように整えている。人名の表記には判読・確認を要するものがあり、その旨を各所に記した。

01

大庭八郎助

郷土の教育をもり上げた人

明治5年(1872年)の学制発布より前から、福田の村で寺子屋を開いていた人物として紹介される。手本を自ら書き、読み書きやそろばんを教え、月並みの清書を貼り出して子どもの励みにしたという。学校制度が整う前の地域の学びを、村のなかで支えていた。

02

早苗庵知何

郷土の偉人・俳人

中野(現在の磐田市福田中野)に関わる俳諧の人として伝わる。中野公民館の前にはこの人物の句碑が建ち、句が刻まれている。和歌や俳句を地域で教えた文化の担い手であり、海に近い村にも文芸の素地があったことを示す。読み・表記は[要確認]。

03

寺田彦太郎・彦八郎

ならい波・幕末の庄屋

幕末の動乱期に庄屋を務めた家として描かれる。資料が「ならい波」と呼ぶ遠州灘の荒い季節風の波に向き合いながら、海岸の村をまとめた。彦太郎は句もよくする文人肌の人物だったと伝えられ、村の統治と暮らしの両方に名を残している。

04

大竹萬吉(御隠居様) [氏名の読み要確認]

漢学一筋に生きた東古様の神隠居様

漢学を学び、漢詩をよくした学者として紹介される。「萬吉様の御隠居様」と呼ばれ、家にこもって学問を究めた人物像が語られる。学校教育とは別に、地域には漢学の深い素養を持つ人がいた。生没年・呼称の細部は[要確認]。

05

伊藤五郎

荒波から土地を守った砂防功労者

豊浜の漁夫で、安政6年(1859年)の生まれと記される[年は要確認]。豊浜海岸に松を植えて砂防林を育て、飛んでくる砂から田畑と集落を守ろうとした。子どもたちに慕われた「おじいちゃん」としての姿も伝わり、像が残されている。

06

寺田市十

別珍織物を生み出す

文久3年(1863年)10月11日の生まれと記される。太田川に近い福田で「丸三工場」を起こし、別珍(綿ビロード)織物の技術開発に苦心した。のちに全国に知られる福田の織物の出発点に立つ、産業の先覚者として描かれる。

07

川島直次郎

旧於保地区の名村長

資料が「旧於保地区」と記す村で村会議員・村長を務め、地方自治に尽くした人物。青年期から地域の世話役として信頼を集め、農業の改良や村の運営に力を注いだと伝えられる。合併へと向かう前の、村が自分たちで物事を決めていた時代の姿を映す。

08

伊藤真一・次平・孝作・照作 [氏名要確認]

豊浜における温室栽培の創始者

豊浜村(現在の福田町豊浜)で、ガラス温室による栽培をはじめた人びととして4人の名が並ぶ。砂地の土地条件のなかで、新しい園芸技術を導入した。冊子の写真には伊藤真一・伊藤次平・伊藤孝作・伊藤照作の名があり、表記は[要確認]。

09

寺田范三

教育一筋に生きた努力の人

学問と教育に生涯を注いだ人物として描かれる。机に向かって書を読む姿の挿絵が添えられ、地道な努力の人だったことが強調される。学校が地域に根づいていく時期に、子どもと学問に寄り添った教育者である。

10

伊藤重平

シラスを追って

福田漁業の先覚者として紹介される。遠州灘のシラス漁に取り組み、動力船や漁法の工夫、シラスの加工へと事業を広げた。海の恵みと危険の両方を相手にしながら、福田を漁業のまちとして押し上げた一人として描かれる。

11

大竹十郎

戦後初代の町長

東京帝国大学法学部に学び、官の道を経て、戦後の混乱期に福田町初代の町長を務めた人物。新制中学校の整備や中央公民館の建設など、新しい福田町の地方自治の土台づくりに関わった。生年など細部は[要確認]。

ここからは、11人を分野ごとに読み解いていく。一人を称えて終わるのではなく、それぞれの仕事が、海と砂地のまちのどんな課題と結びついていたのかを考えたい。

教育と学問

この冊子でいちばん多く登場するのが、教育と学問に関わる人びとである。大庭八郎助の寺子屋は、明治5年(1872年)の学制発布より前から村にあった。学校の制度がまだない時代に、読み書きやそろばんを教える場を、地域の側が自分たちで用意していたことになる。寺田范三は、学校が根づいていく時期に教育へ生涯を注いだ人物として描かれる。

学びの形はひとつではなかった。「萬吉様の御隠居様」と呼ばれた大竹萬吉[要確認]は漢学を究め、漢詩をよくした。早苗庵知何のように、和歌や俳句を地域で教えた文芸の人もいた。漁業や農業で暮らす海辺の村に、寺子屋・漢学・俳諧がそれぞれの形で根を下ろしていた。福田の教育は、学校制度の整備とともに語られがちだが、その手前に、地域が人を育てようとした長い積み重ねがあったことを、この冊子は思い出させる。

海岸と砂地を守る仕事

遠州灘に面した福田・豊浜にとって、海はめぐみであると同時に脅威でもあった。強い季節風が砂を飛ばし、田畑や家を埋めていく。伊藤五郎が豊浜海岸に松を植えて砂防林を育てたのは、その砂と向き合う仕事だった。海岸の松林は、ただの風景ではなく、土地を守るために人が手をかけて育てたものだという視点が、ここから見えてくる。

幕末の庄屋・寺田彦太郎が「ならい波」と呼ばれる荒い波に向き合ったという伝えも、同じ海岸の暮らしの延長にある。砂を留め、波から集落を守る営みは、一代では終わらない。世代をまたいで続けられた砂防の仕事が、いまの福田・豊浜の海岸線の土台になっている。

漁業と海の産業

福田は、遠州灘のシラス漁で知られる漁業のまちでもある。伊藤重平は、その福田漁業の先覚者として紹介される。シラス漁の漁法を工夫し、動力船を取り入れ、とれたシラスの加工へと手を広げた。海は荒く、漁は危険と隣り合わせだったが、その恵みをどう暮らしにつなげるかという挑戦が、海辺のまちの産業を形づくっていった。

シラスは、いまも福田・豊浜を語るときに欠かせない。漁港と加工、流通までを含めた海の産業の出発点に、こうした先覚者の試行錯誤があったことを、この冊子は記録している。

農業と産業の工夫

砂地のまちは、その条件を逆手にとって新しい産業も生んだ。寺田市十が「丸三工場」を起こして取り組んだ別珍(綿ビロード)織物は、のちに福田を全国に知られる織物産地へと押し上げていく。最初の技術開発に苦心した時期の話は、産地がいきなり生まれたわけではないことを伝える。

豊浜では、伊藤真一・次平・孝作・照作[要確認]がガラス温室による栽培をはじめた。水はけのよい砂地は、温室園芸には向いた土地でもあった。海岸を守る松林、織機の音、温室のガラス。海と砂という同じ条件のうえで、漁業とは別の産業の芽が、いくつも育っていったことになる。

地方自治と町づくり

最後に、村と町を運営した人びとがいる。川島直次郎は、資料が「旧於保地区」と記す村で村会議員・村長を務め、農業の改良や村の世話に尽くした。村が自分たちの手で物事を決めていた時代の、地域運営の担い手である。

大竹十郎は、東京帝国大学法学部に学んだのち、戦後の混乱期に福田町初代の町長となった。新制中学校の整備や中央公民館の建設など、新しい福田町の自治の土台づくりに関わったと記される。福田町は、平成17年(2005年)に磐田市・竜洋町・豊田町・豊岡村とともに合併し、現在の磐田市となった。合併で行政の名は変わっても、その手前に、村や町を自分たちで担おうとした人びとの積み重ねがあった。『郷土の先覚者たち』は、その記憶を一冊にとどめた記録である。

福田や豊浜や於保には、海と砂地のうえで暮らしを立て、教育や産業や自治を一歩ずつ前へ進めようとした人たちの積み重ねがあった。 ── 『郷土の先覚者たち 第一集』を読んで

参考資料

  • 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。序=福田町長 寺田徳一、発刊のごあいさつ=福田町教育委員会教育長 木野孫六、あとがき=編集委員長 加藤正。

本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料と巻末正誤表で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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