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磐田物語 / 兜塚古墳
磐田共通 | 古墳・水運

兜塚古墳 ──
大の浦を見下ろした王の円墳と、その後の千五百年

磐田市見付の「かぶと塚公園」の一角に、直径80メートルの小山がある。これが兜塚古墳、静岡県内で最大の円墳である。潟湖・大の浦を見下ろすこの墓に眠るのは、いったいどのような王だったのか。そして、この一基の古墳は、その後の千五百年をどう生き延びてきたのか。

静岡県内で最大の円墳

兜塚古墳は、磐田原台地の西南端の段丘上、磐田市見付に築かれた円墳である。直径は約80メートル、高さは約8メートルを測り、2段に築成されている。前方後円墳ではなく円墳としては、静岡県内で最大の規模を誇る。築造されたのは古墳時代中期、5世紀前半頃と推定されている。「兜塚」という名は、墳丘の側面が兜を伏せた形に似ていることに由来すると伝わる。

確認できること・できないこと
兜塚古墳が直径約80mの円墳で県内最大級であること、5世紀前半の築造であること、三神三獣鏡が出土したことは、Wikipediaや磐田市の資料で確認できる。なお、調査過程で提供された資料には「直径約84m」との記載があったが、複数の資料では直径約80mとされているため、本記事では80mを採用した。

三神三獣鏡が語る、大の浦の王

兜塚古墳が長く前方後円墳か円墳か議論されてきたのは、墳丘の形が単純ではなかったためである。しかし磐田市文化財課による近年の測量調査と総合調査報告書の刊行によって、円墳であることが確定した。副葬品としては、仿製(ぼうせい)の「三神三獣鏡」1面(直径約20.0センチメートル、表面に布の痕跡と朱が付着)や、勾玉・管玉・ガラス玉などの装身具、円筒埴輪片が出土している。

この古墳の立地には、大きな意味がある。磐田物語の別稿(古墳と川・海・道 ── 磐田海・大乃浦と、東海道以前の水運の記憶)で扱ったとおり、築造された当時、兜塚古墳の南側には「大の浦」と呼ばれる広大な潟湖(ラグーン)が広がっていた。兜塚古墳は、その大の浦を一望できる場所に築かれている。これは、この墓の主が、天竜川の農業開発以上に、遠州灘と大の浦を結ぶ「水運」を直接支配した大首長であったことを示している。ヤマト政権からその実力を認められた、海に生きる性格の強い王だったと考えられる。

江戸時代、すでに名所だった

兜塚古墳は、江戸時代後期にはすでに地域の名所として知られていた。享和3年(1803年)に掛川宿の商人で文化人でもあった藤長庚(兵藤庄右衛門)が著した『遠江古跡図絵』には、墳丘の形が武将の兜に似ていることからその名が付いたと記されていると伝わる。また同書には、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いの折、徳川方の本多平八郎忠勝がこの古墳の近くで奮戦したという伝承も紹介されていると伝えられる。古墳という古代の遺構が、戦国の記憶と結びつきながら、近世の人々にも親しまれていたことがうかがえる。

確認できること・できないこと
『遠江古跡図絵』における兜塚の記述や、本多忠勝の一言坂の戦いにまつわる伝承については、調査過程で提供された資料に記載があったものの、今回の独自のWeb調査では一次的な出典を確認できなかった。そのため本記事では「〜と伝わる」という形で、伝承として区別して記している。一言坂の戦いそのものについては別稿で扱っている。

近代、古墳は軍と学校になった

兜塚古墳が近現代にたどった運命は、この地が持つ立地の良さを、皮肉なほどよく物語っている。太平洋戦争中、平野を一望できるこの高台は軍事的に利用され、墳丘には塹壕が掘削された。県内最大の円墳から三神三獣鏡などの副葬品が発見されたのは、実はこの戦時中の塹壕掘削がきっかけであった。古墳を破壊する行為が、皮肉にも古墳の中身を明らかにしたのである。

戦後になると、この一帯は教育の場へと転じた。昭和22年(1947年)には県立静岡農林専門学校が、昭和26年(1951年)には静岡大学農学部がこの地に設立され、墳丘の周辺は大学のキャンパスとして使われた。やがて農学部が静岡市へ移転すると、跡地は「かぶと塚公園」として整備され、現在は総合体育館の横にたたずむ小山として、市民に親しまれている。公園の北側には、県内最大級ともいわれるクロガネモチの木が育っている。

確認できること・できないこと
かぶと塚公園がかつて静岡大学農学部の敷地であったこと、戦時中に塹壕掘削の際に副葬品が出土したことは、複数の資料で確認できる。一方、陸軍の部隊名(第一航空軍情報連隊・中部第129部隊)など、軍事利用の詳細については独自のWeb調査では確認できなかったため、本記事では部隊名を特定せず「軍事的に利用された」という範囲で記している。

一基の古墳が、千五百年を生きた

古墳時代中期に大の浦の王の墓として築かれ、江戸時代には名所として『遠江古跡図絵』に描かれ、太平洋戦争では塹壕が掘られ、戦後は大学のキャンパスとなり、今は市民の公園になっている――兜塚古墳がたどった千五百年は、そのまま磐田という土地の歴史の縮図でもある。一つの塚が、時代ごとにまったく異なる役割を与えられながら、それでも消えずに残ってきた。古墳を「壊さずに残す」のではなく、「使いながら残してきた」磐田の歩みが、この兜の形をした小山には刻まれている。

銚子塚・御厨古墳群との位置関係

兜塚古墳は、単独で理解するよりも、磐田原台地の古墳群全体の中に置いてみると、その意味がより鮮明になる。磐田物語の別稿(小銚子塚古墳と周辺の古墳群)で扱った台地西縁の寺谷銚子塚古墳が、古墳時代前期に天竜川水系を支配した王の墓だとすれば、中期の兜塚古墳は、拠点をやや南下させ、大の浦の水運を握った王の墓である。さらに磐田物語の別稿(御厨古墳群)で扱った台地東南縁の松林山古墳などは、ヤマト政権と最も強く結んだ勢力の墓域であった。磐田物語の別稿(磐田原台地と古墳分布)で示したとおり、台地の縁をぐるりと囲むように、時代の異なる王たちの墓が点在している。兜塚古墳は、その系譜の「中期」を代表する一基なのである。

所在磐田市見付、磐田原台地西南端の段丘上(現・かぶと塚公園)
形状・規模円墳、直径約80m・高さ約8m、2段築成。静岡県内最大の円墳
築造時期古墳時代中期(5世紀前半頃)
主な出土品仿製三神三獣鏡(直径約20.0cm)、勾玉・管玉・ガラス玉、円筒埴輪片
立地の意味南に広がる潟湖「大の浦」を一望。水運を支配した海民的王権の墓
後世戦時中の塹壕掘削で副葬品出土 → 静岡大学農学部 → かぶと塚公園

主な参考資料

本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。墳丘規模(直径84m→80m)など、提供資料と他資料で数値が異なる箇所は、複数資料で確認できる数値を採用し、確認できた点とできない点を本文中で区別して記している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。