失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 中泉に息づく二つの信仰拠点
磐田共通 | 戦国・寺社

中泉に息づく二つの信仰拠点 ──
中泉寺と大乗院三仭坊

中泉御殿と城之崎城をめぐる磐田物語の戦国シリーズは、これまで政治・軍事の視点から中泉を描いてきた。しかし中泉には、家康の信仰と、古墳の上に建つ修験道場という、まだ語られていなかった二つの宗教的な顔がある。

家康が帰依した「御殿のお寺」──中泉寺

磐田市中泉御殿町に位置する大池山中泉寺は、永禄5年(1562年)に開かれた臨済宗の寺院である。徳川家康が鷹狩りのために中泉御殿を訪れた際、梅翁和尚を招いて開山したのが始まりと伝わる。当初は鎌倉・円覚寺派に属していたが、元禄14年(1701年)に妙心寺派へ転派し、現在に至っている。

葵の御紋を許された、寺紋のいわれ

家康は梅翁和尚に深く帰依し、寺領の寄進や堂宇の造営を行っただけでなく、徳川家の家紋である「葵の御紋」を寺紋として使用することを許可したと伝わる。中泉御殿にほど近いこの寺が「御殿のお寺」の別称で呼ばれるのは、御殿と寺という物理的な近さだけでなく、家康の個人的な帰依という精神的なつながりに由来している。境内には家康の位牌も安置されており、中泉御殿が幕府体制の安定とともに寛文10年(1670年)に廃止された後も、中泉寺はこの地における徳川家の記憶を伝え続ける役割を担ってきたといえる。

確認できること・できないこと
中泉寺の創建年・開山の経緯・葵の御紋の使用許可・妙心寺派への転派年は、複数の資料で確認できる。一方、家康の位牌がいつから安置されているかなど、細部の年代については今回のWeb調査の範囲では確認できていない。

古墳の上に建つ修験道場──大乗院三仭坊

中泉地区にはもう一つ、これまで磐田物語で触れてこなかった信仰拠点がある。大乗院三仭坊(だいじょういんみひろぼう)である。真言宗醍醐派に属するこの寺院は、当山派修験道、すなわち山伏の祈祷道場としての性格を持つ。境内には観広山大乗院と小笠山小笠寺という二つの寺院が並び立っており、一つの敷地に二つの寺院が同居するという珍しい構成をとっている。

庚申塚古墳という、もう一つの記憶

大乗院三仭坊が建つ敷地は、庚申塚古墳と呼ばれる4世紀の前方後円墳の上に位置していると伝わる。古墳の埋葬品も発掘されているとされ、この地が古代からすでに祭祀の拠点であったことをうかがわせる。江戸時代には、幕府から十万石の格式と院家格を与えられた「遠州の七坊」の一つに、隣接する小笠寺が数えられていたと伝わる。当山派修験道の拠点として、江戸時代初期には総本山・醍醐寺三宝院から、三河から関東にかけての山伏を取り締まる「吟味役」に任じられ、関所を設けてその任にあたったと伝えられている。しかし明治に入ると、修験道禁止令と廃仏毀釈によって一時は廃寺に追い込まれた。

確認できること・できないこと
大乗院三仭坊が古墳(庚申塚古墳)の上に建つこと、当山派修験道の道場であること、隣接する小笠寺が遠州の七坊の一つに数えられたこと、明治の修験道禁止令で一時廃寺になったことは、複数の資料で確認できる。一方、家康が戦勝祈願に訪れ蘇鉄(ソテツ)を送ったという逸話については、今回のWeb調査の範囲では出典を確認できなかったため、本記事では採用していない。

政治の中泉、信仰の中泉

磐田物語の別稿(中泉御殿と関ヶ原の戦い)磐田物語の別稿(中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち)で扱ったとおり、中泉は徳川政権にとって、鷹狩りと軍略を兼ねた政治拠点であり、天領支配の行政拠点でもあった。しかし中泉の性格は、政治や軍事だけでは語り尽くせない。家康個人の信仰を受け止めた中泉寺と、古代の古墳の上に築かれた修験の道場である大乗院三仭坊は、政治拠点としての中泉とは異なる、もう一つの厚みをこの土地に与えている。府八幡宮や中泉御殿を軸に描かれてきた中泉の宗教地図に、この二つの拠点を加えることで、中泉という土地がいかに重層的な信仰の場であったかが、より立体的に見えてくる。

大きな寺社と、小さな信仰拠点

府八幡宮のように、将軍家や姫君からの寄進を受けて大伽藍を誇った寺社がある一方で、中泉寺や大乗院三仭坊のように、個人の帰依や在地の信仰実践を通じて地域に根付いてきた、より小さな信仰拠点も存在する。前者が国家権力と祭祀の融合を象徴するとすれば、後者は、権力者個人の精神的な拠りどころや、山伏という専門的な宗教者集団の活動拠点として、異なる回路で地域社会に組み込まれてきたといえる。中泉という一つの土地に、これほど性格の異なる信仰の形が併存してきたことは、この地域の宗教史の奥行きを示している。

記録に残らないものを、記録として残す

中泉寺の位牌や葵の御紋、大乗院三仭坊の古墳や吟味役としての由緒は、いずれも大伽藍の由緒書きのように大々的に語られてきたわけではない。むしろ、地域の中で口伝や寺院の縁起として細々と受け継がれてきた性格の強い記憶である。磐田物語がこれまで扱ってきた城之崎城や中泉御殿が、史料や発掘調査によって輪郭を描かれてきた「表」の戦国史だとすれば、中泉寺と大乗院三仭坊は、個人の信仰や在地の宗教実践という、より「裏」の側から中泉という土地を照らし出す記憶だといえる。こうした記憶は、大きく取り上げられる機会が少ないぶん、記録として残しておかなければ静かに失われていく性質を持っている。

中泉寺(大池山中泉寺)永禄5年(1562年)創建、臨済宗妙心寺派(元禄14年に円覚寺派から転派)。家康が梅翁和尚に帰依、葵の御紋の使用許可、家康の位牌を安置
大乗院三仭坊真言宗醍醐派、当山派修験道の道場。庚申塚古墳(4世紀の前方後円墳)の上に建つ。隣接する小笠寺は遠州の七坊の一つ
共通点いずれも中泉御殿・府八幡宮を中心とした既存の戦国・寺社シリーズでは扱われていなかった信仰拠点

主な参考資料

本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。調査過程で提供された資料にあった、家康が大乗院三仭坊に蘇鉄を送ったという逸話は、独自のWeb調査では出典を確認できなかったため、本文には採用していない。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。