何が残っているのか。 磐田原台地の南東縁に並ぶ5基の古墳。全長107m・県内第4位規模の前方後円墳・松林山古墳を中心に、高根山・御厨堂山・秋葉山・稲荷山古墳が構成する国指定史跡である。
御厨古墳群 ── 全長107mの松林山古墳と、卑弥呼の鏡と呼ばれる三角縁神獣鏡
松林山古墳をはじめとする御厨の大型古墳群を、磐田原台地とヤマト王権の接点として読み直す。5基の古墳の規模と出土品、そして周辺に伝わる関連古墳との関係を整理する。
なぜ価値があるのか
松林山古墳からは、貝釧・三角縁神獣鏡(通称「卑弥呼の鏡」)・巴形銅器・内行花文鏡・琴柱形石製品が出土し、いずれも東京国立博物館が所蔵する。ヤマト王権との結びつきを示す代表例。
どの歴史につながるのか
新貝17号墳(連城寺5号墳)・経塚古墳・目隠山古墳といった周辺の古墳とあわせ、御厨という地名の由来、後代の遠江国府の歴史へつながる。
公式情報の整理
- 文化財名
- 御厨古墳群
- 指定区分
- 国指定・史跡
- 種別
- 史跡
- 指定年月日
- 平成13年3月26日
- 年代
- 古墳時代
- 所在地
- 磐田市新貝1555-1他(新貝・鎌田)
- 構成古墳
- 松林山古墳(全長107m・前方後円墳)/高根山古墳(直径52m・円墳)/御厨堂山古墳(全長34.5m・前方後円墳)/秋葉山古墳(南北50m×東西46m・円墳)/稲荷山古墳(全長46.5m・前方後円墳)
- 交通
- JR東海道本線 御厨駅下車 徒歩7分
- 所有者・管理者
- 磐田市ほか(要確認)
- 公式情報
- 磐田市公式ページ
このページでは、指定区分、種別、年代、所在地、指定年月日を、磐田市公式の指定文化財情報および既存の「磐田市の指定文化財一覧」に基づく事実情報として扱う。指定年月日の平成13年3月26日は、既存の一覧(c021)で裏が取れた値をそのまま記した。公式説明は古墳群を同定するための骨格であり、本文ではその文面を写すのではなく、磐田の地域史のなかでどのように読むかを中心に再構成する。
古墳群は、単独の文化財と違って、複数の墓が一つの史跡としてまとめて評価されている点に特徴がある。入口になる語は「新貝・鎌田 / 磐田原台地 / 御厨という地名 / 松林山古墳 / ヤマト王権との接続」である。これらを分けて見ると、御厨古墳群は地図上の一点ではなく、台地の縁に沿って広がる墓域の総体として立ち上がってくる。
土地と地形から読む
磐田原台地の縁という立地
御厨古墳群が営まれた新貝・鎌田一帯は、磐田原台地の南東の縁にあたる。磐田原台地は、西を天竜川、東を太田川水系(今之浦)に挟まれた洪積台地で、古墳や遺跡はその縁辺に集中して分布する。これは偶然ではない。台地の縁は、水を得やすい低地を見下ろし、なおかつ水害を受けにくい安定した地盤であり、見晴らしも利く。古い時代の有力者が、自らの墓を築く場所として選ぶ条件がそろっていた。
古墳の立地を読むときは、「なぜそこか」を地形から考えるとよい。前方後円墳のような大型の墓は、平地のただ中ではなく、低地に向かって張り出す台地の先端や縁に築かれることが多い。低地で働く人々から見上げられる位置に墓を置くことで、被葬者の存在が景観そのものに刻まれる。御厨古墳群の各古墳も、こうした「見られる墓」としての立地条件のうえに営まれたと読み取れる。
低地と海への開け
磐田原台地の南は、遠州灘へと続く低地である。古墳時代の海岸線や河道は現在とは異なるが、この一帯が太平洋側の海上交通に開かれた位置にあったことは、地形の大枠から考えられる。鏡や鉄製品といった当時の威信財は、内陸で自給できるものではなく、広域の交流をとおして手に入れられた。台地の縁に大型の墓を築けた人々が、低地と海に開いた交通の結節点を押さえていたことは、御厨古墳群の性格を考えるうえで重要である。
御厨という地名から読む
「御厨(みくりや)」という地名は、伊勢神宮の御厨、すなわち神宮に食料や品々を納める所領に由来すると伝えられる。これは古墳時代よりずっと後、平安期以降の荘園的な所領のあり方を示す言葉であり、古墳群そのものの命名根拠ではない。しかし、御厨という地名が後世にこの地に与えられたこと自体が、新貝・鎌田一帯が古くから生産力をもち、中央と結びつく価値を認められてきた土地であったことを示している。
つまり、古墳時代に大型墓を築いた有力者がいた土地が、後の時代には神宮御厨として中央に組み込まれ、さらに後には遠江国府の置かれた見付・中泉とともに、遠江の中枢の一角を担っていく。御厨古墳群は、こうした長い土地の記憶の、もっとも古い層にあたる。地名と古墳を重ねて読むことで、一つの土地が時代ごとに中央とどう結びついたかが見えてくる。
構成する古墳を整理する
御厨古墳群は、松林山・高根山・御厨堂山・秋葉山・稲荷山という5基の古墳の総称である。ここでは、磐田市教育委員会文化財課の現地案内パンフレットに基づき、各古墳の規模・築造年代・出土品を整理する。
松林山古墳(しょうりんざんこふん)── 全長107m、県内第4位の規模
御厨古墳群を代表するのが松林山古墳である。全長107mにおよぶ前方後円墳で、静岡県内では第4位の規模を誇る。4世紀後半、古墳時代前期に築かれた。前期の前方後円墳は、ヤマト王権の中枢で確立した墓制が各地の有力者に共有されていった段階を示すもので、この規模の大型墳が遠江の御厨に営まれていることは、この地の有力者が早い段階から中央と深く結びついていたことを物語る。
松林山古墳は昭和6年(1931年)に発掘調査が行われ、豊富な副葬品が確認された。貝釧(長さ25.3cm)、三角縁神獣鏡(径21.2cm、通称「卑弥呼の鏡」)、巴形銅器(最大径7cm)、内行花文鏡(径22.6cm)、琴柱形石製品(長さ7.7cm)、そして石室が出土しており、これらは現在すべて東京国立博物館に所蔵されている。三角縁神獣鏡は、古墳時代前期にヤマト王権が各地の有力者へ配ったと考えられている鏡で、王権と地方の結びつきを示す代表的な威信財である。磐田物語では、同系統の鏡を「三角縁四神四獣鏡」(u025)として別に扱っており、松林山古墳と御厨古墳群を、鏡の伝来という観点からも読み直すことができる。
高根山古墳(たかねやまこふん)── 直径52mの円墳
高根山古墳は、直径52mの円墳で、4世紀末の築造と考えられている。松林山古墳のすぐ後を継いだ有力者の墓と考えられており、円筒埴輪の破片と葺石が確認されている。松林山古墳とともに台地縁の墓域を形づくり、有力者層が複数の世代にわたって墓を営み続けたことを示している。
御厨堂山古墳(みくりやどうやまこふん)── 全長34.5mの前方後円墳
御厨堂山古墳は、全長34.5mの前方後円墳である。5世紀に築造されたが、6世紀に造り替えられており、大刀が出土している。「御厨堂山」という名は、御厨という地名と結びついた呼称で、土地の記憶が古墳の名に残っている例として興味深い。
秋葉山古墳(あきはやまこふん)── 南北50m×東西46mの円墳
秋葉山古墳は、南北50m×東西46mの円墳で、4世紀後半の築造と考えられている。火防の神である秋葉信仰にちなむ名をもち、古い塚が後世の信仰の場として土地に組み込まれ、そのことでかえって削平を免れ、現在まで残された例と考えられる。
稲荷山古墳(いなりやまこふん)── 全長46.5mの前方後円墳
稲荷山古墳は、全長46.5mの前方後円墳で、4世紀後半の築造。重形埴輪が出土している。秋葉山古墳と同様、稲荷信仰にちなむ名をもち、塚と信仰が結びついた例と読める。塚を畏れ、また祀ることで、人々は古墳を壊さずに残してきた。御厨古墳群が国指定史跡として今日まで伝わった背景には、こうした地域の信仰と土地利用の積み重ねがあると考えられる。
周辺に伝わる関連古墳
御厨古墳群の5基以外にも、新貝・鎌田一帯には関連する古墳が伝わっている。これらは国指定史跡「御厨古墳群」そのものの構成古墳ではないが、同じ台地縁に営まれた墓域として、あわせて理解しておきたい。
新貝17号墳(連城寺5号墳)
昭和45年(1970年)に調査が行われた、直径30mの円墳である。変形神獣鏡2枚などが出土している。
経塚古墳
明治時代、東海道本線の敷設工事によって破壊された古墳である。全長約90mの前方後円墳であったと伝わる。出土した三角縁神獣鏡(径22.0cm)は静岡県指定文化財となっている。近代の鉄道建設が、地域に伝わっていた大型古墳を失わせた例として記憶しておきたい。
目隠山古墳
南北35m・東西33m・高さ5.8mの円墳で、5世紀の築造と考えられている。
ヤマト王権とのつながりから読む
前期の大型前方後円墳が、なぜ遠江の御厨に築かれたのか。これを考えるうえで欠かせないのが、ヤマト王権との関係である。前方後円墳という墓の形と、三角縁神獣鏡のような副葬品は、王権の中枢で確立し、各地の有力者に共有・配布されていったと考えられている。すなわち、御厨に大型墳を築けた有力者は、王権の秩序の一端を担い、その権威の配分にあずかる立場にあったと読み取れる。
遠江は、東海地方を東西に貫く交通路の要にあたる。後の時代に東海道が通り、遠江国府が見付に置かれたことからも、この地域が広域の交通と統治のうえで重要であり続けたことが分かる。御厨古墳群は、その長い重要性の起点に位置する。古墳時代前期にこの地の有力者が中央と結んだ関係が、のちの国府の設置、神宮御厨の成立へとつながる土台になったと考えることができる。
図解で見る関係
年表として読む
| 時期 | 見るポイント | このページでの扱い |
|---|---|---|
| 4世紀後半 | 松林山古墳・秋葉山古墳・稲荷山古墳の築造。三角縁神獣鏡ほかの威信財が副葬される。 | ヤマト王権と御厨の有力者の結びつきの起点として読む。 |
| 4世紀末 | 高根山古墳の築造。松林山古墳の後継者の墓と考えられる。 | 有力者の地位が世代をこえて継承されたことの跡として読む。 |
| 5世紀 | 御厨堂山古墳・目隠山古墳の築造。 | 台地縁の墓域が5世紀にも継続したことを示す。 |
| 明治時代 | 東海道本線の敷設工事で経塚古墳(全長約90m)が破壊される。三角縁神獣鏡が出土。 | 近代化のなかで失われた大型古墳の記憶として読む。 |
| 昭和6年(1931年) | 松林山古墳の発掘調査。貝釧・三角縁神獣鏡・巴形銅器・内行花文鏡・琴柱形石製品が出土。 | 御厨古墳群の性格を示す代表的な調査として扱う。 |
| 昭和45年(1970年) | 新貝17号墳(連城寺5号墳)の調査。変形神獣鏡2枚などが出土。 | 周辺に伝わる関連古墳の記録として扱う。 |
| 6世紀 | 御厨堂山古墳が造り替えられ、大刀が副葬される。 | 墓域としての利用が6世紀まで続いたことを示す。 |
| 奈良・平安期以降 | 遠江国府の設置、神宮御厨に由来する地名の成立。 | 古墳時代に結ばれた中央との関係が後代へ引き継がれた層として読む。 |
| 平成13年3月26日 | 国指定史跡として価値が制度上確認された日。 | 地域の記憶が国の文化財保護の対象になった節目として扱う。 |
まち歩きでの読み方
現地で見るときは、古墳の名や形だけでなく、台地の縁という立地、低地との高低差、見晴らしの方向を合わせて確認したい。御厨古墳群は新貝・鎌田の一帯に分散して残るため、一つの塚を見て終わるのではなく、台地の縁に沿ってどのように墓が連なっているかを意識すると、群としての広がりが実感できる。松林山古墳のような中心的な墳と、信仰由来の名をもつ塚とを見比べると、古墳が時代ごとにどう扱われてきたかも読み取れる。
ただし、史跡には所有者・管理者があり、保全や安全のために立ち入りや観察の範囲が定められている場合がある。墳丘の上に登る、私有地に踏み込むといった行為は避け、現地の案内や公開範囲に従いたい。文化財を読むことは、見に行くことだけでなく、千数百年残されてきた塚をこれ以上損なわないよう振る舞うことでもある。
関連リンク
参考資料・注記
- 磐田市教育委員会文化財課『御厨古墳群』現地案内パンフレット(令和7年1月改定)。
- 磐田市公式ウェブサイト「国指定文化財」御厨古墳群該当ページ。
- 磐田物語「磐田市の指定文化財一覧」c021。
- 磐田物語「三角縁四神四獣鏡」u025(松林山古墳出土とされる鏡の系統)。
- 本文では、現地案内パンフレットに基づく各古墳の規模・築造年代・出土品を事実情報、御厨の地名由来などを伝承、地形・立地からの読みを独自考察として分けて扱った。
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