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磐田物語豊田地区 / 小銚子塚古墳と周辺の古墳群

豊田地区の記憶 第二十回 | 土地の記憶

小銚子塚古墳と周辺の古墳群 ── 銚子塚に連なる巨大古墳の系譜と古代の首長系譜

国指定史跡である銚子塚古墳に隣接する「小銚子塚古墳」と、磐田原台地西縁に築かれた古墳群。古代遠江の巨大勢力と、前期古墳から中期・後期古墳へと至る歴史のダイナミズムに迫ります。

豊田地区の南部に位置する「銚子塚古墳(ちょうしづかこふん)」は、全長約110メートルを誇る静岡県内屈指の巨大前方後円墳として広く知られています。しかし、そのすぐ側には「小銚子塚古墳(こちょうしづかこふん)」と呼ばれるもう一つの重要古墳が存在し、周囲には磐田平野を見下ろす台地の縁に沿って、多くの古墳が点在しています。これらは古代の遠江を支配した大首長たちの重層的な歴史を物語る、第一級の遺跡群です。

本稿の要点

銚子塚の影に立つ「小銚子塚古墳」の考古学的意義

小銚子塚古墳(こちょうしづかこふん)は、銚子塚古墳とほぼ同じ古墳時代前期、4世紀後半に築かれたと考えられている古墳である。注目すべきは、その墳形が銚子塚古墳の「前方後円墳」とは異なり、方形の墳丘に方形の前方部を接いだ「前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)」だという点である。全長は約47メートルと銚子塚の半分にも満たない規模だが、後方部の長さ約27メートル・高さ約5メートル、前方部の長さ約19メートル・高さ約2.7メートルという各部の数値が確認されており、前方部をほぼ東に向けて整った墳形をとどめている。前方後方墳は静岡県内では5例しか知られておらず、小銚子塚古墳はそのなかで第2位の規模を誇るとされる、希少な存在である。

前方後方墳は、ヤマト政権の王墓に採用された前方後円墳に対し、東日本の在地勢力などにしばしば見られる墳形として知られる。銚子塚という前方後円墳の傍らに、あえて前方後方という別系統の墳形が選ばれていることは、この地の首長層の出自や政治的立場をめぐる興味深い手がかりであり、単純な「二代目」の墓と片づけられない奥行きをはらんでいる。

小銚子塚古墳は、銚子塚古墳の後円部の北東に、わずか約17メートルの間隔をおいて寄り添うように築かれている。これほど近接して二つの首長墓が並ぶ景観は、当地の首長権力が一代限りの突発的なものではなく、世代を超えて受け継がれる安定した「首長系譜」として地域に根を下ろしていたことを物語る。なお小銚子塚古墳は本格的な発掘調査を経ておらず、副葬品の内容は今なお詳らかでない。墳丘に段築や葺石・埴輪は確認されていない一方、前方部の北側から東側にかけては周濠の痕跡がたどれるとされ、未解明の部分を多く残したまま、銚子塚古墳とともに国の史跡に守られている。

天竜川を眼下にする「聖なる台地の崖線」

これらの古墳群が築かれた場所は、磐田原台地の西縁にあたる、平野を見下ろす崖線の上である。台地は天竜川の流れがつくり出した段丘で、その縁に立てば、現在でも西方に広がる平野と、かつて幾筋もの流路を刻んだ天竜川のかなたまでが一望できる。古代において、天竜川は東海道の往来を阻む難所であると同時に、内陸と海とを結ぶ水運の幹線であり、周辺の水田地帯をうるおす生命線でもあった。首長たちが居館を構える集落ではなく、わざわざこの見晴らしのきく崖の上を墓所に選んだことには、明確な意図があったと考えられる。

平野からひときわ高く望まれる台地の縁に、人の背丈をはるかに超える墳丘を築き上げること自体が、川を行き交う舟人や平野で農作業にいそしむ人々に対して、「我らこそがこの豊かな土地と水を統べる者である」という権威を無言のうちに刻みつける政治的演出であった。古墳時代の大型墳には、墳丘を白い葺石で覆い、頂や裾に埴輪を並べて荘厳する例が各地に見られる。ただし銚子塚古墳・小銚子塚古墳の両墳については、これまでの調査で葺石や埴輪は確認されておらず、土を盛り上げたままの墳丘が、緑なす台地のなかに横たわっていたとみられる。それでもなお、平野を睥睨する立地そのものが、何よりも雄弁な権力の表現装置だったのである。古墳は単なる墓ではなく、生者へ向けて据えられた古代のモニュメントであり、地域を支配する者の存在を示す政治的ランドマークでもあった。

出土遺物が証明する列島規模のネットワーク

銚子塚古墳の後円部からは、古代の権力構造を解き明かす貴重な遺物が知られている。明治13年(1880年)の発掘のおりに竪穴式石室から見つかったと伝えられるのが、「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」をはじめ、巴形銅器(ともえがたどうき)や銅鏃(どうぞく)といった品々である。三角縁神獣鏡は、ヤマト政権の王が各地の有力首長へ同盟と服属の証として分け与えたとする説が有力な、いわば古代の「絆」を象徴する鏡であり、邪馬台国の女王卑弥呼が魏から贈られた鏡になぞらえて語られることも多い。

こうした遺物は、豊田の地を拠点とした首長が、単なる一地方の豪族にとどまらず、はるか畿内の王権と直接の結びつきを持ち、天竜川の水運と物流を握る見返りに、先進的な金属文化や象徴的な特権を手にしていたことを物語っている。一方、隣り合う小銚子塚古墳は前述のとおり未調査で、副葬品の全容は今なお謎に包まれたままである。台地と平野の境界に眠る首長たちの記憶は、磐田が古代日本の歴史の主舞台の一つであったことを、静かに、しかし誇り高く示している。

銚子塚に連なる「磐田原の首長系譜」

銚子塚古墳・小銚子塚古墳は、孤立してそびえ立つ墓ではない。両墳の周囲には、銚子塚古墳群を構成する古墳が点在しており、磐田原台地の西縁一帯は、古墳時代を通じて有力者の墓所が連なる聖域であった。さらに視野を広げれば、台地の北方には松林山古墳(しょうりんざんこふん)を盟主とする御厨古墳群(みくりやこふんぐん)が築かれている。松林山古墳は全長約107メートルの前方後円墳で、昭和初期の発掘によって三角縁神獣鏡をはじめとする多数の鏡が出土したことで知られ、銚子塚古墳と並ぶ遠江の大首長墓と評価されている。

これらの巨大古墳が、磐田原台地という限られた舞台に相次いで築かれた事実は、4世紀の遠江に、ヤマト政権と結んだ強大な首長権力が確かに存在したことを物語る。銚子塚から小銚子塚へ、そして周辺の古墳群へと連なる墳墓の系譜は、一人の英雄の事績ではなく、世代を超えて受け継がれた支配の記憶そのものである。「遠江国はじまりの地」とも称される磐田の原点が、この台地の縁に静かに横たわっているのである。

なお、銚子塚古墳附小銚子塚古墳は、昭和31年(1956年)11月7日に国の史跡に指定され、昭和54年(1979年)には史跡範囲の追加指定が行われている。発掘調査によってすべてが明らかになったわけではなく、とりわけ小銚子塚古墳には未解明の問いが多く残されている。それゆえに両墳は、答えの出きった遺跡ではなく、これからも問いを投げかけ続ける「現在進行形の史跡」として、私たちの足もとに守り継がれている。

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