磐田の低湿地に残った木の道具 ──
見性寺遺跡の丸木舟と、野際遺跡の木製農具
腐りやすい木が、なぜ残ったのか
木の道具は、通常であれば土に還って消えてしまう。石器や土器と違い、木は地中では容易に腐朽するからである。ところが、地下水が豊富に湧き出す磐田市内の低湿地の遺跡では、水が空気を遮断することで木の腐朽が抑えられ、木製品が奇跡的な状態で保存されていた。磐田市文化財だより第251号は、こうした低湿地遺跡の整理作業から分かった木の道具として、見付・見性寺遺跡の丸木舟と、御厨・野際遺跡の木製農具という、時代の異なる二つの発見を伝えている。
本記事で紹介する木製品(丸木舟の舟材・木製鋤・田舟など)の出土内容は、磐田市文化財課発行「いわた文化財だより」第251号(令和8年2月2日発行)に基づく。丸木舟は見付の見性寺遺跡、木製農具は御厨・東貝塚の野際遺跡と、出土した遺跡・時代がそれぞれ異なる点に注意されたい(以前の本記事では両者を「磐田市内の低湿地の遺跡」と一括りにし、古墳時代の水運に関わる道具として紹介していたが、丸木舟の舟材は実際には平安時代末期のものであり、記述を訂正した)。
見性寺遺跡 ── 平安時代末期の丸木舟、3艘分。 見付にある見性寺の境内周辺に広がる見性寺遺跡は、昭和16年に貝塚が発見され、昭和44年の調査で貝塚や縄文土器が見つかったことで、縄文時代の遺跡として広く知られてきた。店舗建設に伴い平成30年度におこなわれた第8次発掘調査では、貝塚が営まれていた時期よりも新しい、平安時代の遺構・遺物が多数発見された。出土遺物の中には遠江国分寺式の軒平瓦があり、瓦で葺いた建物は寺や公共施設に限られていたことから、当時見付に移転していたと考えられている遠江国府に関係する施設の瓦であると推察されている。
この調査では、平安時代末期の舟に使用されていた木材も出土した。大型の木材は貴重であったため、井戸の枠に転用され、鎌倉時代まで利用されていたという。少なくとも3艘分の舟材が見つかっており、それぞれ全長5m以上の丸木舟であったと想定される。材質はスギ、マキなど、いずれも耐水性に優れ加工が容易な針葉樹であった。
古代、見付は『万葉集』にも詠まれた潟湖「大の浦」に面し、遠州灘ともつながっていた。当時の人々は、舟を利用して移動したり、物資を運搬したりすることが可能だった。この水運の利と、東海道による陸運の利が、遠江国府が見付に置かれたことにも関わっていたと考えられる。役目を終えた舟が井戸の枠へ転用され、鎌倉時代まで使われ続けたことは、木という貴重な資源を形を変えながら長く使い続けた、当時の暮らしの一端を伝えている。
野際遺跡 ── 古墳時代前期のムラで使われた鋤と田舟
御厨・東貝塚に所在する野際遺跡は、市立東部幼稚園(現・認定こども園ハローうさぎ山)の園舎建替え工事に伴い、令和2・3年度に発掘調査がおこなわれた。調査では、主に1,650年前、古墳時代前期のムラの跡が見つかっている。地下水が豊富に湧く野際遺跡では、通常では腐ってしまう木製品が多数見つかり、古墳時代の暮らしを垣間見ることができる。建物の柱の根元や、柱の下に敷いて地面に沈み込まないようにするための礎板といった建築材のほか、農作業や土木作業のための道具が見つかっている。
木製農具では、水田稲作に使ったと考えられる鋤(すき、推定長80cm。身と持ち手部分は半分欠損)や、田舟(たぶね、残存長約90cm。材質スギ、手前半分欠損)が出土した。弥生時代に朝鮮半島経由で伝わった水田稲作は、それ以降、土木技術の進展や集団をまとめるリーダーの出現により、生産力を高めていった。野際遺跡でも、鋤を使って田起こしや水路を掘るなど、水田での農作業がおこなわれていたようである。鉄製の刃先を付けた痕は見られないが、硬いカシ材を選んでいることから、木の特性を熟知していたと考えられる。深田で刈り取った稲は田舟に乗せ、ムラまで運んでいたのだろう。古墳時代の遺跡といえば、大きな古墳や豪華な副葬品が大きく注目されるが、豪族たちの暮らしは、配下の人々の労働によって支えられていた。
時代の異なる二つの発見が伝えるもの。 見性寺遺跡の丸木舟(平安時代末期)と、野際遺跡の木製農具(古墳時代前期)は、出土した場所も時代も異なる。しかし、いずれも磐田の低湿地という同じ条件のもとで、通常なら失われるはずの木の道具を今に伝えている点で共通している。見性寺遺跡の舟は遠江国府と見付の水運を、野際遺跡の鋤・田舟は御厨のムラの水田稲作を、それぞれ実物として証明する資料である。兜塚古墳や古墳と川・海・道 ── 磐田海・大乃浦と水運の記憶で扱った、大の浦をめぐる水運の記憶を考えるうえでも、こうした遺構ごとの年代を正確に区別することが欠かせない。
消えやすいものを、記録に残す。 木の道具は、たまたま条件が揃った低湿地でしか残らない。石や金属と違って、ほとんどの場合は跡形もなく消えてしまう。だからこそ、奇跡的に残った丸木舟や木製鋤・田舟は、失われた無数の道具たちの代表として、当時の暮らしを今に伝えている。土地の記憶を記録し、次の世代へ手渡そうとする磐田物語にとって、こうした「消えやすいもの」をあえて言葉にして残しておくことには、大きな意味がある。名もなき人々が握っていた木の柄の感触までを含めて、磐田という土地の記憶なのだから。
| 丸木舟の舟材(見性寺遺跡・見付) | 平安時代末期。少なくとも3艘分、全長5m以上、スギ・マキ材。井戸枠に転用され鎌倉時代まで利用 |
|---|---|
| 木製鋤・田舟(野際遺跡・御厨東貝塚) | 古墳時代前期(1,650年前)。鋤は推定長80cm、田舟は残存長約90cm・材質スギ |
| 保存の条件 | 地下水が豊富な低湿地で、水が腐朽を抑えたため木製品が奇跡的に残存 |
主な参考資料
- 磐田市文化財課「いわた文化財だより」第251号(令和8年2月2日発行、見性寺遺跡・野際遺跡の記事)
- 磐田物語「兜塚古墳」「古墳と川・海・道 ── 磐田海・大乃浦と水運の記憶」「磐田原から今之浦へ」
丸木舟(見性寺遺跡・平安時代末期)と木製農具(野際遺跡・古墳時代前期)は、出土した遺跡・時代がそれぞれ異なる点を区別して記述した。
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