いま磐田市の一言(ひとこと)あたりは、田と住宅の広がる、ごくふつうの郊外に見える。だが今からおよそ四百五十年前、この坂で、徳川家康の軍勢が、甲斐の武田信玄の大軍を相手に、命がけの退き戦をくり広げた。世に「一言坂の戦い」と呼ばれる合戦である。
武田信玄、遠江へ
元亀三年(一五七二年)の秋、武田信玄は大軍を率いて甲斐を発ち、徳川領の遠江・三河へと攻め込んだ。世にいう「西上作戦」である。当時、信玄は織田信長・徳川家康と袂を分かち、将軍・足利義昭が呼びかけたとされる「信長包囲網」に呼応する形で、上洛をもにらんだ大規模な軍事行動に踏み切ったと考えられている。十五代将軍をめぐる中央の政争と、東海の一地方であった遠江とが、こうしてひとつの戦に結びついた。
信玄は軍を三手に分け、一手を山県昌景(やまがたまさかげ)らに任せて三河へ、一手を秋山虎繁(あきやまとらしげ=信友)に任せて美濃へ向かわせ、自身は本隊を率いて遠江を南下した。本隊の兵数は三万に及んだとも伝えられる。十月、武田勢は信濃から遠江へなだれ込み、北遠の城々を次々と攻め落としながら進んだ。ねらいの一つが、天竜川中流の要害・二俣城(ふたまたじょう)であった。二俣城は天竜川と二俣川にはさまれた断崖の上に築かれ、ここを押さえれば天竜川の渡しと、その先の浜松城を直接うかがうことができる。家康にとっては、領国の背骨にあたる土地が脅かされる事態であった。
家康は、武田の大軍を天竜川より西へやすやすと渡らせまいと、本多忠勝(ほんだただかつ)や内藤信成(ないとうのぶなり)を物見(偵察)に出し、自らも三千ほどの軍勢を率いて天竜川を渡って出陣したと伝えられる。家康はこのとき三十歳前後、独立した大名となってまだ日の浅い若き当主であった。ところが武田軍の進みは家康の予想よりも速く、偵察に出ていた徳川勢が武田の先発隊と鉢合わせてしまう。武田方は数で大きく勝り、当面この一帯を進む武田勢は五千ほど、対する徳川勢は三千ほどであったとも伝わる。兵の数では到底かなわない。家康は、ここは退くと決断した。
本多忠勝、決死の殿(しんがり)
退却でもっとも危ういのは、最後尾である。本隊が無事に退くあいだ、追ってくる敵をその身で引き受けて足止めし、味方を逃がす役――それが「殿(しんがり)」である。深追いしてくる敵の正面に立ちふさがり、頃合いを見て自らも退く。一歩まちがえば全滅しかねない、撤退戦でもっとも力量と覚悟を問われる務めであった。この大役を引き受けたのが、若き本多忠勝であったと伝えられる。このとき忠勝は二十代半ばの青年武将である。
忠勝らは一言坂の下という、坂の上から攻め下ろされる不利な地形に踏みとどまり、攻めかかる武田の先鋒・馬場信春(ばばのぶはる)の隊を受け止めた。馬場信春は信玄の宿老として知られる老練の将で、その先鋒は徳川方の備えを押し破ったとも伝わる。さらに武田方の小杉左近(こすぎさこん)は、本多隊の退路を断とうと後ろへ回り込み、鉄砲を撃ちかけたとも伝えられる。前後を押さえられかねない、きわどい局面であった。
軍記の類いには、このとき忠勝が「大滝(おおたき)流れの陣」と呼ばれる構えをとり、敵の只中を突き破って味方を退かせた、と伝えるものもある。坂の下で待ち受けた小杉左近は、勇戦する忠勝をあえて討たず、道をあけて見逃したとも語り継がれる。いずれも軍記・逸話に由来する話で、細部は史実として確かめにくいが、忠勝が殿として奮戦し、徳川勢を大きく崩さずに退かせた、という大筋は伝えられてきた。負け戦の撤退でありながら、殿がみごとに役目を果たしたのである。
この一言坂での退き戦は、それだけで完結するものではなかった。家康が浜松城へ引き上げたのち、武田軍はそのまま二俣城を取り囲む。二俣城は天竜川の水を頼みとする堅城であったが、水の手を断たれてついに同年十二月に開城したと伝わる。そして年の暮れ、城を出て西へ向かう信玄を家康が浜松城の外へ追って出たことから、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いが起こる。家康はここで武田軍に手痛い大敗を喫した。一言坂は、二俣城攻めと三方ヶ原へと続く一連の攻防の、その入口にあたる前哨の一戦であった。
負け戦にも、語り継がれる戦いがある。勝った側ではなく、退きながら味方を守りぬいた一人の若武者の名が、四百五十年を越えて、この坂に残った。
「家康に過ぎたるものが二つあり」
この戦いののち、本多忠勝の武勇を称える落首(らくしゅ=世評や風刺を込めて書き留められた狂歌)が広まったと伝わる。いわく――「家康に過ぎたるものが二つあり 唐(から)の頭(かしら)に本多平八(へいはち)」。家康にはもったいないほど立派なものが二つある、それは「唐の頭」と、本多平八郎忠勝だ、という意味である。武田家の事跡を記した軍学書『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』にこの歌がみえることでも知られる。
「本多平八」が忠勝を指すことに異論はないが、「唐の頭」が何を指すかには諸説ある。通説では、家康が愛用したという、唐(中国)渡りのヤク(犛牛)の毛で飾った兜のこととされる。日本では珍しい舶来の毛皮を用いた立派な兜という解釈である。一方で、「唐の頭」とは家臣・内藤信成がつけていた兜を指し、忠勝と信成という二人の武功を並べ称えた歌だとする見方もある。
誰が詠んだのかについても、確たることは分かっていない。古くは武田方の小杉左近が、敵ながら忠勝の働きに感じ入って書いたと語り継がれてきたが、近年ではこの小杉左近作という説には疑問も呈されており、別人の記録に由来するとも指摘される。後年、石田三成の家臣・島左近(しまさこん)を讃えて「三成に過ぎたるものが二つあり……」と詠まれたのは、この歌の型を借りた替え歌である。落首が広く語り継がれてきたこと自体は確かだが、作者も「唐の頭」の中身も、史実としては「諸説あり」と留保したうえで味わうのがよい。
いま、一言坂を歩く
一言坂のあたりには、県道沿いの道路脇に「一言坂の戦跡(古戦場)」を示す石碑と案内板が建っている。戦場のおおよその範囲については、地形が変わったいまとなっては正確に線を引くことはむずかしく、坂とその周辺一帯と考えておくのがよい。近くの智恩斎(ちおんさい)の門前には「一言観音(ひとことかんのん)」が祀られ、一生に一度、一言だけ願いを聞いてくれるという言い伝えで親しまれている。家康が殿軍の無事を祈ったとも伝わる。
地名の「一言(ひとこと)」と、「一言だけ願いをかなえる観音」とが重なって、この土地に独特の言い伝えを育ててきた。戦の記憶と、暮らしのなかの素朴な祈りとが、同じ坂の上で静かに同居しているのである。
派手な城も天守も残っていない。残っているのは、坂と、石碑と、地名である。それでも、ここで確かに人が戦い、退き、生きのびた。負けて退く戦のなかにも守るべきものがあり、それを守りぬいた者の名が四百五十年を越えて土地に残る――一言坂は、そのことを今に伝える場所でもある。足もとの坂道に戦国の一日が刻まれていることを思い出すと、いつもの風景が少しだけ違って見えてくる。
一言坂をたどる手がかり
- 一言坂の戦跡
- 戦いの古戦場。石碑と案内看板が建つ。所在地は磐田市一言。駐車場はなし。
- 一言観音・智恩斎
- 「一言だけ願いを聞く」と伝わる観音。家康が殿軍の無事を祈ったとも。
- 年代
- 元亀3年(1572年)。三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたる。
- 問い合わせ
- 磐田市観光協会(0538-33-1222)。兵数・日付は史料により幅があり概数。
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