失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
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磐田共通 | 昭和の記憶

昭和の商店街・市場・個人商店 ──
見付から中泉、そして今之浦へ

宿場町・見付の老舗、駅前・中泉の名店ビルと映画館、そして竜洋で幻に終わった映画館計画。磐田の商業の中心地は、昭和という一時代のなかで、見付から中泉へ、そして今之浦へと移り変わっていった。その軌跡と、今も続く記憶継承の取り組みをたどる。

商業の中心地は、なぜ移り変わったのか

磐田市の商業史を大づかみに見ると、そこには明確な空間的な移動の軌跡がある。近世から明治にかけては、旧東海道の宿場町としての見付が経済の中心だった。昭和初期から中期にかけては、鉄道の駅前に商業が集積する中泉(磐田駅前)へと重心が移る。そして昭和後期以降は、モータリゼーション(車社会化)を前提とした今之浦の郊外型商業へと、商業の核は完全に移動した。かつて舟に乗らなければ農作業ができないほどの湿地帯だった今之浦が、駐車場を備えた大型商業施設の立地へと変わったことは、この移動の到達点を象徴している。

駅前商業の象徴、名店ビルとジュビロード

中泉の駅前商業が大きく姿を変えた画期として、地域で語られているのが「駅前名店ビル」の完成である。昭和33年(1958年)ごろ、細分化されていた個人商店を一つの近代的な集合ビルにまとめ、道路拡幅とあわせて駅前の空間を刷新したと伝わる。磐田物語の別稿で既に述べたとおり、この名称・時期は一次資料での裏取りができておらず、地域に伝わる情報として扱う必要がある。ただし、この時期を境に、中泉の商業機能が旧来の代官所・御殿の記憶を土台にした町場から、駅前という新しい中心地へと重心を移していったことは確かである。

その後の区画整備のなかで、駅前広場には堂山古墳から出土した鞆型埴輪(ともがたはにわ)をかたどったモニュメントが設置された。この埴輪は昭和31・32年(1956・57年)の発掘調査で出土した古墳時代中期(約1500年前)のものである。モニュメントは市制施行20周年を記念して昭和43年(1968年)4月に磐田駅へ設置され、令和2年(2020年)3月、JR御厨駅の開業にあわせて御厨駅南口広場へ移設された。古代の遺物が、昭和の駅前開発、そして令和の新駅開業という2つの節目をまたいで居場所を変えてきたことになる。

確認できること・できないこと
鞆型埴輪モニュメントの設置年(1968年)・移設年(2020年)は磐田市文化協会の情報で確認できる。一方、駅前名店ビルの完成年・完成祝賀会の詳細については、今回のWeb調査でも一次資料での裏取りができておらず、地域に伝わる情報として扱っている。

映画館という、もう一つの商業の顔

昭和期の商店街を考えるとき、見落とせないのが映画館の存在である。昭和30年(1955年)ごろ、磐田市内には複数の映画館があったとされ、映画の全国的な観客数がピークを迎えた昭和33年(1958年)前後を境に、館数は徐々に減少していったという。最後まで残ったのは中泉にあった「中活劇場」で、昭和58年(1983年)10月の閉館まで営業を続けた。その後、市内に大型映画館が新たに開館するまでには、実に約26年の空白があったと伝えられている。

専門サイト「消えた映画館の記憶」には、中活劇場のほか、見付町にあった「磐田座」、磐田駅前(善導寺北側)の「花月劇場」、中泉の「磐田日活劇場」、田町の劇場などが記録されている。磐田座では終戦直後、楽隊による呼び込みとともに映画上映が行われていたと伝わり、物資の乏しい時代の娯楽の拠点だったことがうかがえる。これらの個別の劇場名・所在地・存続期間は、今回のWeb調査では同サイト以外での一次資料確認ができておらず、専門サイトが伝える情報として紹介するにとどめる。

竜洋で幻に終わった、映画館の計画

天竜川の河口に位置し、掛塚湊の廻船問屋で栄えた竜洋地区(旧竜洋町)にも、昭和期に映画館を建てようとした動きがあったと伝わる。昭和34年(1959年)ごろ、民間資本による常設映画館「松竹竜洋劇場」を建設する計画が持ち上がり、地域住民に株式の申込書が配布されたという。しかし、まさにこの年に行われた皇太子(現・上皇陛下)御成婚を大きな契機として、テレビ受像機が一般家庭に急速に普及し始めた。娯楽が茶の間へと移っていくこの変化を前に、劇場の建設計画は実現することなく終わったと伝えられている。この計画の詳細についても、今回のWeb調査では独自の裏付けは取れておらず、伝承として扱う。

見付宿に息づく、商家の記憶

磐田物語の別稿(見付の旧家・屋号・家並み)見付の町家・蔵・商家建築で扱ったとおり、見付宿には今も商家の建築が残っている。昭和49年(1974年)には、地元有志によって8ミリ映像「見付の面影」が撮影され、当時の宿場通りの賑わいが町ごとに記録された。この映像は磐田市教育委員会文化財課の資料として今に伝わっている。狭い道幅の両側に小売店が並んだ昭和30年代までの見付宿場通りの姿は、その後のモータリゼーションに伴う道路拡幅で大きく姿を変えたが、地元商店による地域資源を活かした催しを通じて、宿場町の記憶は今も現代につながれている。

記憶を、次の世代へ手渡す試み

竜洋支所内にある磐田市歴史文書館は、公文書の散逸防止を目的に設立されたが、現在は古写真・生活用具など市民からの寄贈も積極的に受け入れている。「昭和の磐田駅と駅前商店街」展や「見付宿場通り」の写真展は、家庭に眠っていた記憶を地域の記録へと変えていく試みである。ジュビロードでは2011年のリニューアルに際し、あえて昭和30年代の看板建築やレトロな街灯を模した景観整備が行われた。個店レベルでも、1955年(昭和30年)創業とされる店が量り売りという昔ながらの商いのスタイルを守り続けているなど、消えゆく昭和の商業風景を、単なる懐古ではなく現在に生きる文化として受け継ごうとする動きが、磐田の各所に見られる。

見付(〜昭和初期)旧東海道の宿場町商業。老舗商家・蔵造り建築
中泉(昭和30〜40年代)駅前の名店ビル・映画館群。集合ビルによる商業近代化
今之浦(昭和50年代以降)モータリゼーションを前提とした郊外型大型商業施設
竜洋未完に終わった常設映画館計画(松竹竜洋劇場、1959年ごろ)
鞆型埴輪モニュメント1968年に磐田駅、2020年にJR御厨駅南口へ移設

主な参考資料

本記事は、地域史調査資料および上記の各種情報源を参考に、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。個別の映画館・竣工年等については一次資料での確認ができていないものが含まれ、本文中で事実と伝承・未確認情報を区別して記している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。