古墳と川・海・道 ──
磐田海・大乃浦と、東海道以前の水運の記憶
磐田原台地と水にまつわる地形
「遠江(とおとうみ)」という国名は、都のあった奈良から見て遠い淡水の湖、すなわち「遠つ淡海(とおつあわうみ)」に由来するという説が広く知られている。近江(近つ淡海)が琵琶湖を指すのと対をなす呼び方である。一般には浜名湖を指すとされるが、国府の置かれた磐田周辺に古代あったとされる湖、いわゆる「磐田湖(磐田海)」や、その東にあった「大乃浦(大之浦)」を指すのではないかとする見方も示されている。どちらが正しいかは今も定まっていないが、遠江という国名そのものが、内陸の湖沼と分かちがたく結びついて名づけられたことは共通して読み取れる。
古代、天竜川の下流域は「磐田海」と呼ばれる湖ないし入江を形成しており、その東側にも「大乃浦」と呼ばれる水域が広がっていたと伝わる。これらの水域が陸上の通行を阻んでいたため、古い時代の東海道の本道は、浜名湖の北岸、三ヶ日を経由する「二見の道」であったとされる。磐田海・大乃浦の水がしだいに引いていったのち、東海道は浜名湖の南岸を通るルートへ移り、それにともなって二見の道は裏街道としての役割に退いていった。この変化そのものは古代から中世にかけての出来事であり、古墳時代の記録ではないが、磐田周辺がかつて広い水域に囲まれた土地であったことを示す地形的背景として押さえておきたい。現在も残る「今之浦」という地名・水路は、この古い水域の記憶をとどめているものと考えられる。
東海道以前の道 ── 二見の道という迂回路
二見の道が本道であったという事実は、裏を返せば、磐田周辺の水域が、当時の人にとって迂回せざるを得ない大きな障害であったことを意味する。船で渡るのか、水域を大きく回り込むのか。いずれにせよ、磐田原台地の南から東にかけて広がっていたであろう水面は、単なる自然の景観ではなく、この土地を歩く人・物の流れを具体的に規定する条件であった。古墳時代の交通を考えるとき、道という陸路だけでなく、水域そのものが持つ「渡る・迂回する」という機能を合わせて考える必要がある。
後の時代に東海道が浜名湖南岸を通る安定したルートとして確立し、遠江国府が見付に置かれたことを踏まえると、磐田原台地とその周辺は、水域の変化とともに交通の重心が移り変わっていった土地だったといえる。古墳時代の有力者が台地の縁という高台を選んだ背景には、低地の水はけや見晴らしという条件だけでなく、こうした水域に接し、水運や渡河の要所を押さえられる位置にあったという事情も含まれていたと考えるのが自然だろう。
水運と威信財の流通 ── 房総・瀬戸内の事例から
古墳時代における鉄や鏡の流通を考えるうえで、水運の役割を具体的に示す研究がいくつか蓄積されている。瀬戸内海の航路については、朝鮮半島との交易、とりわけ鉄素材の輸入において、瀬戸内の水運が果たした役割が指摘されている。畿内と瀬戸内、そしてその先の朝鮮半島とを結ぶ海の道が、古墳時代の威信財流通の骨格をなしていたという理解は、考古学のなかで広く共有されている。
畿内から離れた東国においても、同様の構図が確認されている。房総半島(現在の千葉県)は、古墳時代前期の段階からすでに、畿内と東国を結ぶ海上ルートの重要な寄港地であったとされ、王権が地方の首長に最新の文物を配布する回路として、この海上交通が機能していたと考えられている。畿内から見て遠い土地の首長が、なぜ王権とつながる威信財を手にできたのか。その答えの一つが、内陸の道ではなく、海と船を介した広域のネットワークであった。
遠江もまた、瀬戸内や房総とまったく無縁の土地ではない。遠州灘という太平洋に面した海岸線を持ち、天竜川という大きな川が台地の西を流れる。これらの水系が、畿内から東国へ向かう海上ルートの中継点として機能していた可能性は、地形の大枠からは十分に考えられる。ただし、遠江における古墳時代の具体的な水運ルートの復元は、房総や瀬戸内ほど研究が進んでいるわけではなく、個々の航路や寄港地を断定することはできない。ここではあくまで、水運というネットワークが威信財流通の基盤であったという一般的な理解を、遠江という土地に重ねて考える視点を示すにとどめたい。
磐田海・大乃浦・二見の道の存在、瀬戸内・房総における水運と威信財流通の研究は、それぞれの出典に基づく史実・学説として扱う。一方、「磐田原台地の古墳分布が水運の要衝と重なる」という見方は、地形的な状況証拠からの考察であり、遠江における水運ルートを個別に特定・断定するものではない。
磐田の古墳分布と水系の重なり
磐田原台地の古墳群を、あらためて水系との位置関係で見直してみる。台地北部・向笠の新豊院山古墳群は、太田川水系に近い台地東縁に位置する。台地南東部・鎌田新貝の御厨古墳群は、同じく太田川水系(今之浦)に近い低地を見下ろす縁にある。台地西縁、寺谷の銚子塚古墳・小銚子塚古墳は、天竜川を見下ろす位置に築かれている。台地西南端の見付・中泉に集まる兜塚古墳・土器塚古墳は、後の遠江国府の中枢部と重なる。
| 新豊院山古墳群(台地北部・向笠) | 太田川水系に近い台地東縁。弥生末〜古墳前期。三角縁神獣鏡出土。 |
|---|---|
| 御厨古墳群(台地南東縁・鎌田新貝) | 太田川水系(今之浦)に近い低地を見下ろす縁。古墳前期。松林山古墳ほか。 |
| 銚子塚古墳・小銚子塚古墳(台地西縁・寺谷) | 天竜川を見下ろす縁。前方後円墳・前方後方墳の組み合わせ。 |
| 兜塚古墳・土器塚古墳(台地西南端・見付中泉) | 後の遠江国府の中枢部と重なる。古墳中期。 |
こうして並べてみると、磐田原台地の主要な古墳群は、いずれも天竜川か太田川水系のどちらかに近い縁に位置しており、台地の中央部には大型古墳が築かれていない。この分布は、低地の生活圏を見下ろす立地という説明だけでなく、川や水域を介した人・物の移動路に沿って、有力者の拠点が並んでいたことを示している可能性がある。鉄や鏡が海と川を伝って磐田原台地にもたらされたのだとすれば、それを最初に受け取り、蓄え、分配できる立場にあったのが、台地の縁に古墳を築いた首長たちだったと考えることができる。
天竜川の水運の記憶 ── 近世の掛塚湊から遡って考える
天竜川が物資輸送の大動脈であったことを具体的に示す記録は、古墳時代よりもずっと下った近世に残っている。伊那地方(現在の長野県南部)で伐り出された木材が天竜川を下り、河口の掛塚湊(現在の磐田市掛塚)から駿河・江戸へ積み出されていたことが知られており、「遠州天竜川下り」として、地域の生業と結びついた舟運の実態が伝わっている。この近世の姿をそのまま古墳時代に当てはめることはできないが、天竜川という河川が、時代を超えて物資輸送の経路として利用され続けてきたこと自体は、古墳時代における水運の可能性を考えるうえでの参考になる。一つの川が、木材であれ、鉄や鏡であれ、長い時間の中で人と物を運び続けてきたという見方は、磐田の古墳を交通という切り口から読み直す手がかりになるだろう。
古墳の分布を、立地条件という静的な説明だけでなく、川・海・道という動的なネットワークの中に置いて読むことで、台地の縁に眠る古墳群は、孤立した墓の集まりではなく、遠く離れた地域とつながる回路の結節点として見えてくる。磐田原台地の古墳群を歩くときは、目の前の墳丘だけでなく、そこから見える川筋や、かつて広がっていたであろう水面にも目を向けてみたい。
主な参考資料
- Wikipedia「遠江国」「二見の道」「天竜川」
- 大平茂「古墳時代の瀬戸内航路と兵庫県内の祭祀遺跡」兵庫県立考古博物館研究紀要第14号
- 千葉県教育振興財団研究紀要「古代東国の交通網-古墳時代の水運ルートの復原-」
- 磐田物語「磐田原台地と古墳分布」「御厨古墳群」「新豊院山古墳群と台地上の支配者」「磐田原から今之浦へ」
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