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磐田物語豊田地区 / 天竜川池田の渡船

資料 | 豊田地区・池田・江戸時代の交通史

天竜川池田の渡船 ──
家康の証文から始まった渡し場300年の記憶

昭和51年(1976年)、豊田町郷土を研究する会が刊行した『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』は、東海道随一の難所であった天竜川池田渡船場の起源から、助郷による運営組織、大名との特約、大通行と外国船来日がもたらした影響、洪水のたびの仮渡船まで、渡船300年の歩みを丹念にたどった資料である。渡し場を支えた村々の労苦と、明治の舟橋への移行までを読み解く。

磐田市街の西、天竜川の左岸に位置する池田は、江戸時代を通じて東海道の渡船場として栄えた土地である。橋のない時代、旅人も大名行列も、みなこの渡しで川を越えるほかなかった。渡船場を運営したのは池田村だけではない。周辺の村々が「助郷」として人足や船を出し、ときに大名家と個別の契約を結び、洪水のたびに仮の渡し場を設けながら、渡船は江戸から明治へと300年近く続いた。「町内史跡めぐり」60選では渡船場跡や三国堤、明治16年の池田橋を紹介したが、本記事ではその土台となった江戸時代の渡船制度そのものを、資料に沿って詳しくたどる。

この記事の要点

資料について

『天竜川池田の渡船』は、豊田町郷土を研究する会が編集した郷土研究資料の第二集にあたる。第一集『ふるさと豊田』(昭和49年/1974年)に続き、豊田町教育委員会が発行した。会長の斎藤勝郎氏が「発刊にあたって」を、豊田町教育長の河合俊一氏が「刊行をたたえる」をそれぞれ寄せている。本文は「天竜川渡船の起源」「渡船役の組織」「渡船の運営」の3章と「むすび」からなり、巻末には「余録」として関連する史料が付されている。

資料名
郷土研究資料第二集『天竜川池田の渡船』
編集
豊田町郷土を研究する会
発行
豊田町教育委員会
発行年
昭和51年(1976年)3月
構成
一、天竜川渡船の起源/二、渡船役の組織/三、渡船の運営/むすび/余録

渡船の起源 ── 池田荘から家康の証文へ

天竜川池田の渡船は、資料によれば延長5年(927年)頃にはすでに行われていたとみられ、平安末期には池田の地が松尾大社領の荘園「池田荘」の一部であったことが、渡船の成立とも関わりが深いと記されている。中世を通じて渡し場としての性格を保ちながら、戦国の争乱期を経て、天正元年(1573年)、徳川家康は池田船方十人衆に朱印状を与え、天竜川下流域における渡船の権利を認めた。この家康の証文が、以後300年近く続く池田村の渡船権の起点となった。「町内史跡めぐり」60選で紹介した渡船場跡・三国堤・池田橋跡は、いずれもこの渡船の記憶を今に伝える史跡である。

渡船場は南から下横町・中横町・上横町の3か所が並び、水量や川筋の変化に応じて使い分けられていたと伝わる。渡し場を核に、池田は旅人相手の茶屋や宿が並ぶ「間の宿(あいのしゅく)」としての性格も帯び、延享元年(1744年)には家数216軒を数えるまでになったという。

渡船役の組織 ── 定助郷と大助郷

渡船場を運営したのは、池田村の渡船方だけではなかった。日常の渡船を支えるため周辺の村々が人足や船を出す「定助郷(じょうすけごう)」の仕組みがあり、中野町村・半場村・新貝村・東大塚村・西大塚村・東村・芋瀬村・西堀村・敷知村・江口村など、天竜川左岸の御料(幕府直轄領)の村々が名を連ねている。これらの村は高瀬船・小船を出し合い、日々の渡船業務を分担した。

これとは別に、将軍上洛や大名の大通行など、渡船の需要が一時的に膨れ上がる際に増員を出す「大助郷(おおすけごう)」の村々もあった。国吉村・鶴見村・駒場村・老間村・茅場村・向新田・末島村・内名村・吹上村など、私領の村々が中心である。文久3年(1863年)、14代将軍徳川家茂の上洛に際しては、「御上洛ニ付増役等相勤候処書面之通御座候」として、定助郷・大助郷の別なく多くの村が池田渡船場の増役に動員された記録が残る。定助郷の日常勤務は毎年12月から翌年正月19日頃までと定められていたともみえ、農閑期にあたるこの時期、助郷村々の人足が交代で渡船場に詰めていたことがうかがえる。

渡船場の運営には、伝馬・高瀬船・小船・荷物・人馬それぞれについて細かく定められた渡船賃の表があり、渡船役人によって代々受け継がれてきた。渡船賃の分配、渡船方への「船勧進物(ふなかんじんもの)」という祝儀の慣行、堤や仮橋の修理費用の負担、水量が増した際の「船橋(ふなばし)」の架設、そして助船・助人足の動員体制など、渡船を一年を通じて維持するための細かな取り決めが、資料には数多く書き残されている。助郷の具体的な仕事内容や村ごとの負担割合は渡船を支えた助郷たちで、船賃の分配や船勧進物、堤防修理の費用負担は渡船経済のしくみで、それぞれ詳しくたどっている。

大名との特約 ── 紀州藩・尾張藩、そして奥州の大藩

渡船をめぐっては、特定の大名家と池田村の渡船役人とが個別に「特約」を結ぶ例もあった。紀州藩・尾張藩の御三家をはじめ、奥州の有力大名も、池田村の渡船役の家と契約を結び、その藩の参勤交代の際の渡船一切を請け負わせていたことが史料からわかる。こうした特約は、大名側にとっては渡船の手配をあらかじめ確実にしておく意味があり、渡船方にとっては安定した収入源になる一方、実際にはさほど大きな利益にはならなかったとも記されている。渡船契約とは別に、渡船賃の三割増しや二十人扶持といった優遇を受けていた大名もあれば、目録や祝儀程度で済まされた大名もあったようで、その扱いは藩によってまちまちであった。

紀州藩や尾張藩ほどの大藩の通行ともなれば、供の人数も荷も膨大であり、渡船方は前もって日程の連絡を受け、出府する月日が定まると早速村々へ伝え、大名一行が到着する前に川を渡りきれるよう準備を整えていたという。渡船契約のあった大名は、この両藩が両方の渡船一切を指揮していたと伝わるように、特定の家が窓口となって差配する体制がとられていた。仙台藩姫君輿入れの渡船目録帳や福井藩通行の具体的な記録は大名と渡船の特約で詳しくたどっている。

大通行と池田

東海道を上下する大名行列や公用の通行――大通行は、江戸時代を通じて数百回にのぼったという。これによって宿場町は繁盛し、商工業も発展したが、その裏で助郷を務める農民は課役の増大に疲弊した。渡船場の維持と大通行への対応は、いわば表裏一体の関係にあり、資料は「東海道往還之儀近国諸家に多大の被害を与えている」という嘉永7年(1854年)の見付宿からの歎願書を引きながら、その負担の重さを伝えている。

大通行の規模を示す例として、嘉永3年(1850年)10月に行われた琉球使節の江戸参府の記録がある。「琉球人参府ニ付御持船人足書上帳」と題された文書には、東海道天竜川を渡るためだけに船頭百人ほどが動員され、定助船・高瀬船・小船など多数の船が差し出されたことが記されている。将軍への使節、大名行列、公用の荷――さまざまな通行が積み重なるたびに、池田の渡船場と助郷の村々は、その都度この規模の態勢を組んでいたことになる。大通行の恩恵と犠牲の両面は大通行と池田の渡船場で詳しくたどっている。

外国船の来日と渡船への影響

寛政4年(1792年)、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航して以降、日本近海に外国船の姿が現れるようになり、幕府の異国船防禦体制の強化とともに、東海道沿いの往来にも影響が及んだ。当初は人馬の通行量が主であったが、嘉永6年(1853年)のペリー来航、翌嘉永7年の日米和親条約締結を経て、鎖国から開国へと国論が大きく揺れ動くなかで、街道の交通量そのものが増大していったと資料は指摘する。

この動揺は、宿駅・助郷の村々をいっそう疲弊させる一因となった。文久3年(1863年)頃には米価が高騰し、助郷役の村々は困窮を極め、なかには夜逃げ同然に村を離れる者も少なくなかったという。渡船場の助船・助人足制度もまた、宿駅疲弊の一因であった。公用のための無賃仕事が増える一方、渡船だけで生活していた渡船方は、公用を優先せざるを得ず、まして大名の通行が重なる時期には、必然的に財政困難に陥っていったのである。幕末の動揺と渡船場の関係は外国船の来日と渡船への影響で詳しくたどっている。

天竜川の氾濫と仮渡船

天竜川は「暴れ天竜」の名が示す通り、渡船にとって恵みであると同時に、幾度となく渡し場を襲う脅威でもあった。文化13年(1816年)8月13日から翌日にかけての大風雨により、渡船場そのものが流失する被害が生じ、仮の渡船場が設けられた。この時の仮渡船は9月まで運用が続いたと伝わる。仮渡船の運用手続きと川留めの水位基準は天竜川の氾濫と仮渡船で詳しくたどっている。

さらに文政11年(1828年)には、6月末から9月にかけて3回の洪水が連続して発生し、そのたびに池田側・対岸側双方の渡船場が被害を受けた。渡船が全く途絶えてしまう日もあり、見付宿から浜松宿までの間、村々の川船を回して急場をしのぐこともあったという。仮渡船の開設・廃止は中泉代官所の役人が現地に出張して取り決め、道中奉行所への届け出も必要とされた。通行の可否を左右する川の増水量には目安があり、四尺八寸・九寸(約1.5m前後)を超えると徒歩による「越立(こしだて)」は禁止され、五尺(約1.5m)以下であれば渡船で渡ることができた、というように、水位に応じた細かな運用基準が定められていた。

橋のない時代、川はただの障害ではなく、渡し場を核に村の暮らしと財政を支える資源でもあった。洪水のたびに壊れ、そのたびに人の手で立て直されてきたのが、天竜川池田の渡船である。

むすび ── 渡船が結んだ池田の300年、そして舟橋へ

資料は「むすび」で、池田の渡船が徳川幕府初期には江戸防禦の要害として、また東海道の大動脈として、重要な地位を占めていたと総括する。家康は人心懐柔の巧みな交通政策を通じて全国の諸政策に端を発した渡船権を池田村に与え、これによって池田は天竜川の持つ人的・経済的な自然条件のうえに、地方に対して強い立場を保ち続けることになった。洪水によって渡船が圧倒的に多かったという事情はあるにせよ、池田村が江戸期を通じて存立し続けた第一の理由は、この渡船権にあったと資料は結んでいる。

しかし幕府権力の泰平化が進むにつれ、その恩恵は薄らいでいく。江戸末期には池田村・船越村ともに財政的な危機に見舞われ、村請人や道中奉行所への嘆願を重ねながら、渡船方は既得の権利を守ろうと努めていた。証文には「無高渡船一ヶ村通用船(前略)私共御渡世方無くにては相成申さず」と、渡船だけで生きてきた者たちの切実な訴えが残されている。

その渡船の時代に終止符を打ったのが、明治の架橋である。明治6年(1873年)、新しい時代を迎えて舟橋の計画が持ち上がると、渡船だけを生業としてきた池田・船越の両村は生活の道を失うことを案じ、橋が完成した後は自分たちを橋掛渡人足として雇ってほしいと願い出た嘆願文が残されている。翌明治7年(1874年)11月17日、源平新田村から中野町村へ架ける舟橋の工事が始まり、同年11月に開通式が行われた。これが「東海道天竜川橋」で、豊田郡中野町村の浅野茂平ら外一人が立案したものであった。なお、これに先立つ明治元年(1868年)10月3日には、明治天皇が東京行幸の途上、天竜川を仮設の船橋で渡ったとの記録も資料に残されている。300年近く続いた渡船は、こうして橋の時代へと引き継がれていった。「町内史跡めぐり」60選で紹介した明治16年(1883年)の池田橋は、この明治7年の舟橋に続いて、地元有志が私費を投じて架けたさらに後の橋である。渡船の時代を通じて臨時に架けられてきた船橋そのものの歴史――新田義貞の敗走から朝鮮通信使の来朝まで――は、天竜川に架けられた船橋で詳しくたどっている。

用語ひとくちメモ
定助郷=日常の渡船業務を分担した近隣村々。大助郷=将軍上洛など大通行の際に増員を出した村々。大通行=参勤交代や将軍上洛、使節の通行など、東海道を大人数で通る公用の往来。船勧進物=渡船方に対する祝儀・慣行的な進物。越立=増水時に徒歩で川を渡ること。
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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。