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磐田物語豊田地区 / 外国船の来日と渡船への影響

資料 | 豊田地区・池田・江戸時代の交通史

外国船の来日と渡船への影響 ──
ラクスマンから幕末の動揺まで

寛政4年(1792年)、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航して以降、日本近海に外国船の姿が現れるようになった。嘉永6年のペリー来航、翌年の日米和親条約締結を経て、鎖国から開国へと国論が大きく揺れ動くなかで、天竜川池田の渡船場と助郷の村々もまた、静かに、しかし確実に、その余波を受けていた。

黒船来航という日本史の大きな出来事は、遠く離れた天竜川の渡船場にも影を落としていた。異国船防禦のための人馬の往来、開国後の街道交通量の増大、そして物価高騰による助郷農民の困窮――天竜川池田の渡船で触れた幕末の動揺を、資料に沿ってもう少し詳しくたどる。

この記事の要点

ラクスマン来航と異国船防禦

寛政4年(1792年)、ロシアの使節アダム・ラクスマンが根室に来航して以降、日本近海に外国船の姿が現れるようになった。これを受け、幕府は異国船防禦の体制を強化していく。当初、街道への影響は人馬の通行量の増大が主であったが、この動揺は街道の交通量そのものを次第に押し上げていったと資料は指摘する。海防という国家的な課題が、遠く離れた東海道の宿駅・助郷にまで及んでいたことがうかがえる。

ペリー来航から日米和親条約へ

嘉永6年(1853年)のペリー来航、翌嘉永7年(1854年)の日米和親条約締結を経て、日本は鎖国から開国へと大きく舵を切ることになる。この国論を揺るがす動乱のなかで、街道の交通量はいっそう増大していった。異国船渡来を理由に道中を進送される荷物が莫大になったことは、嘉永7年に見付宿から出された歎願書にも記されており、大通行と池田の渡船場で触れた大通行の負担増とも重なり合う出来事であった。

助郷農民と渡船方の困窮

幕末の動揺は、宿駅・助郷の村々をいっそう疲弊させる一因となった。文久3年(1863年)頃には米価が高騰し、助郷役の村々は困窮を極め、なかには夜逃げ同然に村を離れる者も少なくなかったという。渡船を支えた助郷たちで触れたように、助郷の負担はもとより重いものであったが、幕末の物価高騰がそれにさらに追い打ちをかけた形である。

渡船場の助船・助人足制度もまた、宿駅疲弊の一因であった。公用のための無賃仕事が増える一方、渡船だけで生活していた渡船方は、公用を優先せざるを得ず、まして大名の通行が重なる時期には、必然的に財政困難に陥っていったのである。渡船方の財政難は、天保9年(1838年)の大洪水で仙台藩へ借金と救恤物を願い出た記録にも通じるもので、幕末に近づくにつれ、渡船を取り巻く経済状況は次第に厳しさを増していったことがうかがえる。堤防や仮橋の修理費用の負担については渡船経済のしくみで詳しくたどっている。

黒船来航という遠い出来事が、天竜川の渡し場と、そこで働く人々の暮らしを静かに圧迫していく。幕末の動揺は、江戸や浦賀だけでなく、東海道のあらゆる渡し場に及んでいた。

幕末の主な出来事と渡船場への影響
寛政4年(1792)ラクスマン来航→異国船防禦体制の強化/嘉永6年(1853)ペリー来航/嘉永7年(1854)日米和親条約→交通量増大/文久年間 米価高騰による助郷困窮
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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。