渡船は単なる交通手段ではなく、池田村・船越村にとって暮らしを支える財産そのものであった。渡船から得られる収入は「船名敷」という持分に応じて分配され、この権利は財産として売買・分割の対象にもなった。一方で、渡船場を維持するための費用は決して小さくなく、堤防の修理や船の造替、そして洪水の後始末まで、村々は絶えず費用の工面に追われていた。
この記事の要点
- 渡船の収益を受け取る権利は「船名敷」と呼ばれ、財産として代々相続・売買された。
- 池田村・船越村は夏秋2回、遠江国中から米・大豆・麦・塩・紙・金銭などの「船勧進物」を集める慣行を持っていた。
- 天保11年(1840年)の勘定辻調帳には、勧進物の収支が具体的な数字で記録されている。
- 堤防の定式普請は流域の村々が費用を負担し、大破の際には幕府の公儀御入用でまかなわれた。
- 天保9年(1838年)の大洪水では、渡船方が特約先の仙台藩に借金と救済を願い出た記録が残る。
船名敷 ── 渡船の収益を受け取る権利
渡船から得られる収益を受け取る権利は「船名敷(ふななじき)」と呼ばれ、棹(さお)の持ち日数によって、賃金の分配を受ける仕組みになっていた。財として、この権利を持つ者は代々相続されるとともに、実際に売買の対象にもなっている。資料が引く『譲渡申御船役之事』(安政6年/1859年12月)には、池田大橋家に伝わる証文として、大番役壱ヶ月片川に而一月弐分五厘の舟役を金弐拾三両で譲渡した記録が残る。
船名敷の口数は時代とともに細分化されていった。文化3年(1806年)の「船名敷割」では持高23.925名敷(約24名敷)を47人で分け合っていたが、明治4年(1871年)の「船名敷割」では同じ規模の持高を50人で分け合うようになっている。船名敷はもとは24に分けられていたが、その持高は売買譲渡の対象となり、分家などの際にはさらに分割されることで、次第に細分化が進んでいったと考えられている。
船勧進物制度 ── 夏秋2回、遠江国中から
池田村・船越村には、往古から続く「船勧進物」という独自の収入源があった。文政12年(1829年)の史料によれば、この船勧進物を徴収する権利は、もとは池田村・船越村の両村に平等に与えられたものであったが、その後、池田村渡船方が有利な立場になり、両村の間にかなりの格差ができていったという。勧進物は遠江国中の村々を対象に取り集められ、その収益は船名敷の持高に応じて渡船関係者へ分配された。
勧進物を集める時期・集め方・集め高も記録に残っている。池田村の場合、居番十一名に名主一名を加えた十二組で編成し、一組ごとに三つの地域を割り当てて取り集めた。船越村の場合はさらに広く、遠江国内の四十三の地域に分けて取り集めており、各村の名主が捺印した控帳が、勧進物徴収の確認の証として保存されていたという。集める時期は基本的に夏・秋の二度であったが、必ずしもすべての村が年二回集められたわけではなく、また米・金銭のほかに大豆・麦・紙・塩といった、その村の産物で都合のよいものを差し出せばよいことも多かったらしい。
| 種類 | 量 | 金銭換算 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 米 | 15石1斗1升4合 | 11両2分2朱と7文 | 国中勧物1両につき1石3斗 |
| 大豆 | 15石2斗3升4合 | 16両と242文 | 同断・1両につき9斗5升 |
| 麦 | 16石3斗3升4合 | 5両1分2朱と471文 | 同断・1両につき3石 |
| 塩 | 2石6斗5升 | 6貫624文 | 同断・1升代24文 |
| 紙 | 17束 | 760文 | 同断 |
| 金・銭 | ― | 1両と44貫742文 | 同断 |
| 銭 | ― | 338貫294文 | 元賃銭船越分 |
| 銭 | ― | 56貫382文 | 2割増・船越村分 |
| 惣メ | ― | 34両と447貫522文 | ― |
支出の部を見ると、飯料(食事代)に141貫600文、会所薪代に17貫700文、会所油茶代に7貫372文が充てられているほか、最も大きな支出は「大番役11人日数177・水主947人1人172文」で340貫724文にのぼる。役人2人分の給金として5両3分2朱と163文、網30筋代に4貫500文、国中勧物集めの節の宿払・小遣いに2両と9貫932文、川場諸入用として池田村へ渡した16貫779文などが記録されている。勧進物代の中から差引かれる形で、遠方への出張には泊りがけの手当が支給され、小遣・酒手・茶代等の諸経費もまかなわれていたという。渡船関係者への分配は、すべて船名敷の持高によってなされていた。
堤防の修理と洪水への備え
池田村を守る堤防は、大天竜(天竜川の東川)の東を南北に流れる「三国堤」、大囲堤、そして小立野村境から一言坂の戦いの際に家康を守るために築かれたと伝わる「内郷堤」の3つからなっていた。「町内史跡めぐり」60選で紹介した三国堤・大囲堤は、いずれもこの防御網の一部である。堤防の定式普請(定期的な修理)は流域の村々が費用を負担し、文化14年(1817年)の『出来形帳』によれば、普請にあたる村々には交付金が支給され、宿泊費用が細かく記録されている。堤防の普請は一般に定式普請と国役普請とに分けられ、これらの費用負担は大変な仕事であったと思われる。
渡船場そのものの仮橋や船の修理費用は、公儀(幕府)御入用でまかなわれることが多かった。延享元年(1744年)の『池田村渡船方指出帳』によれば、渡船場の仮橋板・仮橋板等の造り替えは代々中泉御役所に願書を提出して許可を得て行なわれていた。安政2年(1855年)には、池田村渡船方が持つ渡船十一組のうち、大番船・早船の造り替えは公儀御入用で行われ、小番船22艘は各組の自費造立であったという。船の建造用材は、大久保村(磐田市大久保)にある中泉代官所の御用林から調達され、天竜川上流から筏で運ばれてきた材木を、村々が入札で調達していたと記録されている。
天保9年の大洪水と、仙台藩への嘆願
天保9年(1838年)、池田村を始め天竜川沿いの各村々に大水害が襲い、七百八十軒もの家々が浜松宿へ流れ着き、乞食同然となったという記録が残る。文字通り天竜川流域最大の被害であり、森本村では堤防が押し切られて収穫が皆無となるほどの惨状であったという。この被害の大きさを物語る年貢割付帳や立毛検見帳が今に伝わっている。
この窮状を救うため、渡船方居番の中田家は、渡船の特約先であった仙台藩(伊達家)を頼り、借金と救恤物を願い出た。天竜川池田の渡船で触れたように、池田村の渡船役人と奥州の大藩との間には個別の特約関係があり、こうした特約は日頃の渡船の請負にとどまらず、非常時の頼みの綱としても機能していたことがうかがえる。仙台藩は渡船方の重なる洪水被害に同情し、格別の慈悲をもって救済に応じたと伝わる。堤を強く丈夫にしなければならないという住民の願いは切実であったが、そのためには堤防の普請に多額の費用がかかり、中泉御役所への借入金や御救物の御願状をもって願い出るほかなかったという。
渡船は日々の賃銭だけでなく、船名敷という財産権であり、勧進物という独自の徴収権でもあった。だが同時に、堤防と船を維持し続けるための、終わりのない費用負担でもあった。
- 渡船経済の構成要素
- 船名敷=渡船収益を受け取る権利(持ち日数に応じて分配、売買・相続の対象)/船勧進物=夏秋2回、遠江国中から集める米・大豆・麦・塩・紙・金銭/堤防普請=流域村の定式普請と、公儀御入用による大規模修理
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