失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語豊田地区 / 町内史跡めぐり60選

資料 | 豊田地区・地域史目録

「町内史跡めぐり」60選 ──
昭和53年、豊田町郷土を研究する会が歩いた記憶の地図

昭和53年(1978年)3月、豊田町郷土を研究する会と豊田町教育委員会が刊行した『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』は、旧豊田町の全域を歩き、60か所の史跡・伝承地を大字ごとに記録した資料である。碑と地名だけが残るものもあれば、今も祭りや信仰として続いているものもある。60か所を一覧にしたうえで、いくつかの場所を掘り下げてたどる。

磐田市街の西、天竜川の左岸に広がる旧豊田町域には、戦国の合戦跡から、江戸の渡船場、明治の学校跡、昭和の治水事業の記念碑まで、時代の異なる記憶が重なり合っている。『町内史跡めぐり』は、それを大字単位で丹念に歩いた記録である。

この記事の要点

資料について

『町内史跡めぐり』は、豊田町郷土を研究する会が編集した郷土研究資料の第四集にあたる。既刊は第一集『ふるさと豊田』(昭和49年/1974年)、第二集『天竜川池田の渡船』(昭和51年/1976年)、第三集『ふるさと豊田改訂版』(昭和52年/1977年)で、いずれも豊田町教育委員会が発行してきた。第四集は昭和53年(1978年)3月20日の発行で、印刷は浜松市外東若林の中部印刷株式会社である。

編集委員会は「まえがき」で、これまでに編集した『ふるさと豊田』や『池田の渡船』をもとにまとめたと述べたうえで、収録した史跡には史実というより伝承と考えられるものもかなり含まれている、と自ら断っている。地元の人々の言い伝えをできる限りそのまま書き留めておこうとする姿勢がうかがえる資料であり、本記事でも史実と伝承を区別しながら紹介する。

資料名
郷土研究資料第四集『町内史跡めぐり』
編集
豊田町郷土を研究する会
発行
豊田町教育委員会
発行日
昭和53年(1978年)3月20日
収録数
史跡・伝承地60か所(付表として巡礼札所一覧を併載)

60か所の一覧

資料に登場する順に、番号・名称・所在の大字を一覧にした。すでに磐田物語で独立記事のある史跡には、記事名を添えた。

『町内史跡めぐり』収録60か所(掲載順)
No.名称大字備考
1豊田町郷土資料館中野戸昭和52年開館
2医王山東光寺跡匂坂西
3大めし祭匂坂西諏訪大権現の大祭
4古谷の馬坂上気賀
5地蔵菩薩と石観音七蔵新田
6治水記念碑七蔵新田昭和10年建立
7岩田堤締切記念碑七蔵新田昭和47年
8石観音匂坂中之郷文明7年洪水伝承
9六面地蔵匂坂下貞享5年
10上坂上遺跡匂坂下方形周溝墓
11諏訪谷気賀東
12元稲荷気賀東
13泰松山儀春院跡気賀西
14西香山法泉寺跡中野戸
15加茂西地蔵尊立像加茂西
16久松山大円寺加茂西平野重定公の墓
17寺谷用水加茂西寺谷用水の開削石高が語る元禄の磐田
18観音堂加茂川原
19広野遺跡加茂東原
20気賀坂富丘〜加茂東原
21東原開拓碑富丘・東原
22摂取山行興寺(熊野寺)池田熊野御前ゆかり
23済縁山誓渡院池田北浦
24池田橋跡池田上横町明治16年日本初の有料橋
25瑞雲山妙法寺池田宿
26粒見堂観音中町
27天白神社池田中町喧嘩相撲
28渡船場跡池田下横町
29三国堤池田
30大囲堤小立野慶長10年
31間の宿池田
32上新屋観音堂上新屋
33士石山林昌寺小立野
34弥藤の観音様弥藤太島
35旧跡挑燈野上万能上万能「挑燈野」
36姫街道一言→池田
37一言坂の戦跡一言一言坂の戦いと、本多忠勝の殿
38一言山智恩斎一言一言坂の戦いと、本多忠勝の殿
39秋葉街道一言〜高見丘
40稲荷山一言北原
41水汲坂と禁酒地蔵一言
42皆川陣屋跡一言
43静大農学部跡一言・富丘昭和48年移転
44かぶと塚一言5世紀前半の古墳
45若宮八幡宮森下
46西之島学校跡森下遠州三大学校
47明治天皇駐蹕の地西之島明治11年
48天竜橋跡源平新田明治7年架橋
49天竜川治水祈念公園小立野
50長森観音堂長森
51長森こうやく長森
52東海道一里塚宮之一色慶長9年築造
53神宮山松向寺宮之一色元和5年創立
54豊田山薬師堂気子島延暦22年創建伝承
55万能橋下万能天正16年架橋
56少林寺跡の大イチョウ海老塚樹齢300年以上
57医王山安楽寺立野元久年間創立
58慈現山福王寺森本弘治年間開創
59帯金家長屋門上本郷
60こひめっこの墓赤池真田幸村ゆかりの伝承

注記: 資料の目次・本文の表記に従った。合戦史については既に磐田物語で詳述しているため、17・35・37・38番は概要リンクにとどめている。

池田の渡し ── 家康の証文と三国堤

天竜川左岸の池田は、東海道が天竜川を渡る渡船場として栄えた土地である。渡船そのものは延長5年(927年)頃から行われていたとみられ、天正元年(1573年)には徳川家康が池田船方十人衆に朱印状を与え、天竜川下流域における唯一の渡船権を認めた。渡船場は南から下横町・中横町・上横町の3か所が並び、水量に応じて使い分けられていたという。渡船権は家康の掟書によって以後300年にわたり続き、延享元年(1744年)には池田村の家数が216軒にまで増え、渡船の繁盛ぶりを物語っている。道沿いには辻屋のなべやきや杉田屋のどじょう汁といった、旅人相手の茶屋が並ぶ「間の宿(あいのしゅく)」としての景観も備えていたと伝わる。渡船を支えた助郷の組織や大名との特約、大通行や洪水がもたらした影響については、天竜川池田の渡船 ── 家康の証文から始まった渡し場300年の記憶で詳しくたどっている。

渡船場のあった池田は、洪水のたびに危険にさらされる土地でもあった。慶長10年(1605年)、徳川家康は伊奈忠次に命じ、忠次は寺谷用水を完成させた平野重定に豊田郡の新田開発を、伊奈備前守は角倉了以(すみのくらりょうい)に天竜川の堤防築造を命じたと伝わる。北部・南部を東西に囲んだ堤は「三国堤」と呼ばれ、駿河・遠江・三河の三国から人夫を徴発して築いたことに由来する。西面の大囲堤、東面の内郷堤とあわせ、池田村は洪水から守られた。現在も小立野に堤の一部が残っている。

明治7年(1874年)、源平新田と中野町の間に船橋が架けられたことで、池田・笠井・有玉方面への往来は一時不便になった。これを受け明治16年(1883年)、市川粂蔵・杉村七重郎・鈴木浦八ら地元有志が昇竜社をつくり、幅1.5間(約2.7m)、長さ425間(約765m)の木橋を私費3,875円で架けた。日本最初の有料橋のひとつとされる池田橋である。洪水のたびに橋脚が流されて経営が苦しくなり、のちに池田村が買収して村費で維持したが、昭和8年(1933年)に国道1号の鉄橋が完成すると取り壊され、跡地に「池田橋跡」の碑が建てられた。

一言(ひとこと)の坂と道

一言の坂道は、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いの舞台として知られる。合戦そのものの経緯と本多忠勝の武勇については、磐田物語ではすでに一言坂の戦いと、本多忠勝の殿(しんがり)一言坂の戦いと磐田の戦場地形で詳しくたどっているため、ここでは重複を避け、資料に残る周辺の地名と道筋にしぼって紹介する。

『町内史跡めぐり』によれば、一言坂で敗れて退却する家康軍は、松林に多数の提灯やのぼりを押し立てて陣地と見せかけ、深い沼地に武田勢をおびき寄せたと伝わる。多くの死者を出した武田勢の魂を弔ったのが「挑燈野(ちょうちんの)」で、かつては「万能螢」と呼ばれる大きな蛍が多く飛んだ場所であるという。この蛍は武田軍戦死者の魂であるとも語り継がれてきた。

一言の坂へ通じる道にも、いくつかの呼び名が残る。西坂で旧東海道から分かれ、間の宿・渡船で知られる池田へ抜ける近道は「姫街道」と呼ばれた。かごの乗りつぎ場所である立場があり、一言坂の途中には昭和の初め頃まで「ゴロンボの墓」と呼ばれる、やくざ者の墓があったとも伝わる。日本左衛門にだまし討ちにあって殺されたがえんの平助の墓とされ、追われた者が斎藤家(南)と高橋家(掛屋・南)のどちらに隠れるか思案したことから、近くの橋は「思案橋」とも呼ばれたという。また磐田原台地の西の縁を、大乗院坂から秋葉山へ向かって延びる道は「秋葉街道」と呼ばれ、金刀比羅神社跡・稲荷山・大円寺旧跡・幻の大鳥居など、道沿いに旧跡が多いと伝わる。

一言坂の北、約500mの崖上一帯は「稲荷山」と呼ばれ、旗本・皆川氏が三河宝飯郡西島から迎えて祭った稲荷があった。皆川氏は一言村・西之島村・匂坂中村・下岡田村にまたがり合わせて1,800石余を治めた旗本で、その陣屋があったとされる一帯は今も「陣屋」の地名で呼ばれる。一言南原から一言の里へくだる坂は「水汲坂」と呼ばれ、途中のほこらには日本で唯一つといわれる「禁酒地蔵」が祭られている。昭和4年(1929年)、松本一可氏が恩師の遺志を継いでここへ移し祭ったもので、健康長寿・家内安全のほか、禁酒で家庭が円満になり子どもの成績が良くなったという言い伝えから、受験地蔵としても信仰を集めているという。

一言・富丘の一帯には、戦時中に129部隊が置かれ、終戦後は師範学校の仮校舎、昭和22年(1947年)には県立農林専門学校となり、のちに静岡大学農学部となった。校地統合により昭和48年(1973年)に静岡市へ移転し、跡地は長く空地のままであったと資料は記す。その跡地に残る古墳が「かぶと塚」で、五世紀前半の築造とみられ、一言坂の戦いで奮戦した本多忠勝がこの塚の松の木に兜をかけたという言い伝えから名がついたとされる。明治3年(1870年)の蓑笠一揆では、磐田郡南部73か村の庄屋を集めて作戦を練った場所とも伝わる。

森下・西之島 ── 学び舎と行幸の記憶

森下に鎮座する若宮八幡宮は、仁徳天皇・応神天皇・神功皇后を祭神とする。明治6年(1873年)の浜松県達により、北は七蔵新田・池田、南は本郷・平間に至る28か村の神社を森下へ遷して合祀し、郷社となった。祭典では中央の力士を招いて相撲が奉納され、この相撲興行に功労のあった竜洋町平松の平ノ松利八の頌徳碑が境内に建てられている。郷土の一言村に生まれた佐藤繁蔵は、明治3年、27歳で江戸に出て和田の森の四股名で相撲をとり、後に立浪親方にまで出世したと伝わる。

若宮八幡宮の境内西側、現在は工場敷地となっている一帯が「西之島学校」の跡地である。明治5年(1872年)の学制頒布の翌年、熊谷敬三が私塾を発展させて開校し、明治8年(1875年)には若宮八幡宮の西側に洋風三階建ての校舎を新築した。見付小学校、鎌田の坊中学校とあわせ、明治初年以来「遠州の三大学校」の一つに数えられたという。その後、井通小学校と改称し、昭和29年(1954年)の移転改築で現在の豊田南小学校となった。

西之島には、明治天皇の遠州行幸を記念する碑もある。明治11年(1878年)11月1日、東山・北陸巡幸の帰路、明治天皇は西之島の旧家・熊谷三郎馬方で休憩した。これを記念して井通村青年会員が大正9年(1920年)10月30日に建てたのが「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の地」の碑である。

天竜川と橋の記憶

記念碑の建つ源平新田から中野町に至る間には、明治7年(1874年)2月、幅3.6m・延長1,175mの木橋「天竜橋」が開通した。東海道の往来になくてはならない通路であったが、大水のたびに流れてきた材木で破壊され、有料橋でありながら維持管理には苦労が絶えなかったという。昭和8年(1933年)6月に鉄橋が完成すると木橋は不要となり、取り払われた。天竜川原には今も昔の橋脚の一部が残る。

小立野の天竜川治水祈念公園は、天竜川と密接な関係を持つ4市7町1村による天竜川治水促進同盟会が管理している。公園内の「天竜川治水記念碑」は、治水に貢献した数多くの先輩の労苦を偲び、あわせて今後の水の恵みを願って建てられたもので、正確な南北軸に沿った割れ目、竜眼、敷石などに意匠が凝らされている。北隅には「大橋頼模君碑」がある。衆議院議員に2回当選し天竜川治水に活躍した豊田町出身の政治家の顕彰碑で、大正3年(1914年)に見付町の磐田郡自治館脇に建てられたものを、昭和45年(1970年)にここへ移築したという。

長森・宮之一色の道と薬

長森観音は江戸時代(年代不明)から長森地内にあり、縁日は毎月9日、昭和30年代までは区内全戸が回り当番で供養を務めたと伝わる。本尊は観世音菩薩の石像で、子どもの健康祈願の信仰が厚い。堂内には、一言の清水文六作と思われる漆喰芸術(明治時代作)の額も残る。

同じ長森で、江戸時代初期から山田与左衛門家が代々家伝の膏薬をつくり、「長森こうやく」として売り出していた。あかぎれやひびの妙薬として東海道を旅する大名や庶民の土産に評判が高く、明治以後も民間薬として珍重されたという。当家には京都の宮様からいただいたという座敷看板が保存されている。

宮之一色の旧東海道北側には、東海道一里塚の碑がある。一里塚は慶長9年(1604年)、徳川氏により諸街道に築かれたもので、宮之一色の一里塚は江戸日本橋から63番目にあたる。直径約11mの塚の上にエノキが植えられ、旅人の目印であると同時に、人夫の賃金をはかる基準ともなった。現在の一里塚は昭和46年(1971年)の復元である。

気子島・下万能・海老塚・立野・森本・上本郷・赤池

気子島の豊田山薬師堂は、延暦22年(803年)に坂上田村麻呂が東日本征討の際に建て、薬師如来を安置して田園を寄進したと伝わる。家康からは石高40石の朱印を受けて栄えたが、元和3年(1617年)の火災で焼失し、現在の堂は宝暦2年(1752年)の再建という。眼病平癒を祈る参拝者が多い。

下万能の万能橋は、天正16年(1588年)、家康の命による寺谷用水の工事にあわせて東海道の通路として架けられた橋である。徳川幕府が天竜川を下る物資に「十分一税」を課したことに北遠の人々は困窮し、安政4年(1857年)、これの中止を歎願するため蓑笠姿で食料を持参した3千余人が万能橋に集結し、中泉代官所へ押しかけようとした大騒動があったと伝わる。

海老塚の少林寺跡には、樹齢300年以上とみられる大イチョウが残る。少林寺は慶長5年(1600年)の創立で、江戸末期には遠江四十九薬師の第四番札所として多くの巡礼を集めたが、昭和47年(1972年)に廃寺となった。目通り3.8m、枝張り20mに及ぶ大木で、根元には享保17年(1732年)寄進の観音石像がある。

立野の医王山安楽寺は元久年間(1204〜1205年)の創立と伝わる古寺で、比叡山の名僧・恵心僧都の作と伝えられる本尊薬師如来を祀り、家康が鐘を寄進した記録も残るという。江戸時代の画家・枳蘭筆と伝わる十六羅漢の画幅16幅が保存され、昭和51年(1976年)に豊田村指定文化財となった。

森本の慈現山福王寺は弘治年間(1555年頃)の開創で、徳川家光より朱印高27石1斗を賜ったが、火災で伽藍を焼失した。山門前には宝永6年(1709年)建立という珍しい鏡映文字(左文字)の供養石が残る。北方150mの天竜川堤防上には、昭和37年(1962年)建立の井通堤締切記念の碑もある。

上本郷の帯金家には、元亀年間(1570〜1572年)、武田信玄との戦いに敗れて逃げる徳川家康が立ち寄り、助けを求めたという言い伝えが残る。当主は帯の間から財布を取り出して金を与え、後にその恩義から「帯金」の姓を与えられたと伝わる。江戸時代初期に建てられた長屋門は、江戸末期に同じ規模で建て替えられたもので、建物研究のうえで貴重とされる。

赤池の墓地には、「こひめっこの墓」と呼ばれ、400年もの長い間、地域の人々に守られ親しまれてきた墓がある。信州上田城主・真田幸村が二代将軍徳川秀忠に攻められたとき、幼い姫を赤池の藤原氏(大杉家先祖)に託したが、姫はその後、両親から離れ幼くして亡くなったという。それを哀れんだ赤池の人々が、長く弔い続けてきたと伝わる。

巡礼札所が重なる町

『町内史跡めぐり』の巻末には、豊田町内の巡礼札所一覧表が付されている。新四国八十八か所札所、遠江四十九薬師めぐり札所、観世音菩薩三十三所霊場、豊田三十三か所観音巡礼札所という、由来の異なる4つの巡礼路の札所が、この狭い町域に重なり合っていたことがわかる。少林寺跡(海老塚)は遠江四十九薬師めぐり第四番であると同時に豊田三十三か所観音巡礼第三十二番でもあり、妙法寺(池田宿)は遠江四十九薬師めぐり第七番と新四国八十八か所第十四番を兼ねる。ひとつの寺や観音堂が、いくつもの信仰の道の結節点になっていたことも、この資料が伝える豊田町の記憶のひとつである。

『町内史跡めぐり』を歩く手がかり
大字ごとの60か所は、いずれも案内板や駐車場が整っているとは限らない。私有地・墓地に隣接する史跡も多く、見学の際は地域への配慮が必要である。
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主な参考

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。