東海道を行き交う大名行列や公用の通行――大通行は、宿場町を繁栄させ、商工業の発展にも役立った。だがその裏で、助郷を務める農民は課役の増大に疲弊し、渡船場もまたその都度、平時とは桁違いの態勢を組まなければならなかった。天竜川池田の渡船で触れた大通行の記憶を、具体的な記録とともにたどる。
この記事の要点
- 大通行は江戸時代を通じて数百回にのぼり、宿場町の繁栄と助郷農民の疲弊という両面をもたらした。
- 嘉永3年(1850年)の琉球人参府では、船頭百人ほどが動員される大規模な態勢が組まれた。
- 嘉永7年(1854年)の見付宿からの歎願書には、大通行の負担の重さが訴えられている。
- 外国船渡来を機に、道中を運ばれる荷物はいっそう莫大になったと記録されている。
大通行とは何か
大通行とは、参勤交代の大名行列、将軍の上洛、日光社参、そして朝鮮通信使・琉球使節の参府など、東海道を大人数で上下する公用の通行を指す。これらは江戸時代を通じて幾百回となく行なわれ、通過する宿場町は繁盛し、商工業の発展にも役立ったと資料は記す。それによって交通路の改善が進んだのも事実であり、文化の向上に役立った側面もある。しかし、それは同時に助郷農民の犠牲のうえに成り立っていたことも確かである、と資料は指摘している。
大通行が及ぼす影響について、嘉永7年(1854年)に見付宿から出された歎願書には、次のような趣旨が記されている。「東海道往還之儀近国諸家に多大の被害を与えている」というもので、道中を運ばれる荷物の量や、宿駅・助郷の負担がいかに大きかったかを物語っている。この歎願書はまた、「異国船渡来近年ニ而道中御進送之荷物莫大之御儀」とも述べており、外国船の来航をきっかけに、道中を運ばれる荷物がいっそう莫大になっていったことをうかがわせる。
嘉永3年、琉球人参府の渡船態勢
大通行の規模を具体的に示す記録として、嘉永3年(1850年)10月に行われた琉球使節の江戸参府がある。「琉球人参府ニ付御持船人足書上帳」と題された文書には、東海道天竜川を渡るためだけに、船頭百人ほどが動員され、定助船・高瀬船・小船など多数の船が差し出されたことが記されている。将軍への使節、大名行列、公用の荷――さまざまな通行が積み重なるたびに、池田の渡船場と助郷の村々は、その都度この規模の態勢を組んでいたことになる。
このほか、宝暦10年(1760年)の京の近衛家から仙台藩へ嫁ぐ姫君の輿入れのような、大名家どうしの婚儀にともなう大通行の記録も残っている。大名と渡船の特約で触れたように、こうした大通行の際には、特約を結んだ大名家の御用を、池田村渡船方の特定の家が一手に差配していた。
大通行の恩恵と犠牲
大通行は、宿場町にとって決して悪いことばかりではなかった。文化の向上に役立ち、交通路の改善が進んだこと、商工業の発展に寄与したことは、資料も認めるところである。だが同時に、助郷を務める農民にとっては、家業に差し支えるほどの重い夫役であった。とりわけ将軍の上洛のような大規模な通行が重なる年には、農民は極めて低廉な賃銭で強制的に課役を課され、その負担のあまりの重さに、宿駅から逃げ出す者さえあったと伝わる。助郷の具体的な負担については渡船を支えた助郷たちで詳しくたどっている。
大通行は、宿場を潤す晴れの舞台であると同時に、それを支える村々にとっては、幾度となく繰り返される重い義務でもあった。渡船場のにぎわいの裏には、常にこの二つの顔があった。
- 大通行の代表例
- 参勤交代・将軍上洛・日光社参・朝鮮通信使・琉球使節の参府(嘉永3年/1850年の記録では船頭百人規模の態勢)
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