橋のない時代、川の増水は渡船そのものを止めてしまう最大の脅威であった。渡船場が流された時、東海道の交通を止めるわけにはいかない。そこで組まれたのが「仮渡船」である。天竜川池田の渡船で触れた洪水と仮渡船の記録を、より詳しくたどる。
この記事の要点
- 文化13年(1816年)8月の大風雨で渡船場そのものが流失し、仮の渡船場が設けられた。
- 文政11年(1828年)には6月末から9月にかけて3回の洪水が連続し、渡船が全く途絶える日もあった。
- 仮渡船の開設・廃止は中泉代官所の役人が現地に出張して取り決め、道中奉行所への届け出も必要とされた。
- 川の増水量には目安があり、四尺八寸・九寸を超えると徒歩渡り(越立)は禁止され、五尺以下であれば渡船が可能であった。
- 川止め(川留め)は急用の御状箱でも例外なく適用される、厳格な規定であった。
文化13年の大風雨
文化13年(1816年)8月13日から翌日にかけての大風雨により、渡船場そのものが流失する被害が生じた。渡船が使えなくなれば、東海道の交通はたちまち滞る。そこで急遽、仮の渡船場が設けられ、この時の仮渡船は9月まで運用が続いたと伝わる。
文政11年、3回連続の洪水
さらに文政11年(1828年)には、6月末から9月にかけて3回の洪水が連続して発生し、そのたびに池田側・対岸側双方の渡船場が被害を受けた。渡船が全く途絶えてしまう日もあり、見付宿から浜松宿までの間、村々の川船を回して急場をしのぐこともあったという。三度にわたる連続の洪水は、渡船方にとっても、助郷の村々にとっても、通常の年とは比較にならない負担であったと考えられる。
仮渡船の運用手続き
仮渡船の開設・廃止は、中泉代官所の役人が現地に出張して取り決めるものであった。渡船場が流失するたびに勝手に仮渡船を出せるわけではなく、道中奉行所への届け出も必要とされた。仮渡船の運用には、平時とは異なる運賃や通行手順が定められ、通行の可否を左右する川の増水量には明確な目安があった。四尺八寸・九寸(約1.5メートル前後)を超えると、徒歩による「越立(こしだて)」は禁止され、五尺(約1.5メートル)以下であれば渡船で渡ることができた、というように、水位に応じた細かな運用基準が定められていたのである。
この川留め(川止め)の規定は厳格なもので、たとえ急用の御状箱であっても例外は認められなかった。ただし五尺以下の増水であれば渡舟は可能であり、その場合でも荷物の増水ならば渡舟の継立を行なうことができたという。天竜川の川止めは、当時の東海道の中でも助郷制度(助郷)を伴う数少ない例のひとつであったとも記されている。
洪水は渡船場を何度も壊した。だがそのたびに、代官所の役人が出張し、村々が船を出し合い、渡船場は立て直されてきた。天竜川池田の渡しの300年は、こうした復旧の繰り返しでもあった。
- 主な洪水の記録
- 文化13年(1816)8月13〜14日の大風雨で渡船場流失、仮渡船を9月まで運用/文政11年(1828)6月末〜9月に洪水3回連続、渡船途絶
- 川留めの目安
- 四尺八寸・九寸(約1.5m前後)超で越立禁止/五尺(約1.5m)以下で渡船可能
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