橋のない時代の天竜川は、日常は渡船で越えるものであった。だが数千人規模の軍勢や、将軍・大名家をも上回る格式で迎えられた外国使節の行列となれば、渡船だけでは到底さばききれない。そうした特別な通行のために、川に船をいくつも並べて板を渡した「船橋」が、繰り返し組まれてきた記録が資料には残っている。
この記事の要点
- 天竜川の渡河は原則として渡船であり、船橋はあくまで臨時の架橋であった。
- 南北朝時代の新田義貞、戦国期の今川氏親・徳川家康・織田信長など、軍勢の通過にあわせて船橋が架けられた記録が残る。
- 江戸時代には、朝鮮通信使・琉球使節の来朝という国家的な行事の際にも、天竜川へ船橋が架けられたと考えられている。
- 船橋の資材・鉄鎖は池田村渡船方が保管し、朝鮮人・琉球人来朝時の負担は周辺の朱印地・除地には免除されていた。
- 助人足として動員された農民の負担は重く、渡船賃はしばしば無償同然であったという。
軍勢が越えた船橋 ── 南北朝から戦国へ
『天竜川池田の渡船』が引く記録によれば、天竜川への船橋の架設が確認できる最も古い例のひとつは、暦仁元年(1238年)、将軍・藤原頼経の上洛に際してのものとされる。鎌倉から京へ向かう将軍の一行のために、川を越える臨時の橋が組まれたのである。
南北朝の争乱期、建武2年(1335年)12月14日、新田義貞は箱根竹之下の戦いに敗れ、西へ逃れる途中、天竜川(下万能)に浮橋をかけて渡ったと伝わる。『太平記』にも描かれる有名な場面で、追われる身の義貞が、渡船を待つ間もなく川を越えるために船橋を選んだことがうかがえる。
戦国期に入ると、永正11年(1514年)、今川氏親は遠江の斯波義達を討つため、天竜川に浮橋(船橋)を架けて渡ったと伝わる。永禄11年(1568年)には、若き日の徳川家康が今川氏親を攻めるにあたり、同じく天竜川に浮橋をかけて渡ったという記録が残る。天正10年(1582年)6月、武田勝頼を討つため天目山へ向かった織田信長は、天竜川に浮橋を架けて渡り、その帰途、浜松で家康の歓待を受けたのち、東海道を安土城へ帰る際には、池田の宿から家康が新たに架けた船橋を渡って浜松城へ向かったとも伝わる。池田荘と「葛巻」で紹介した中世の池田の地は、こうした軍勢の往来の記憶とも重なっている。
江戸幕府の開府直前、慶長19年(1614年)10月14日、大坂冬の陣に出陣する徳川家康・秀忠父子を渡すため、天竜川の西川・東川の二瀬に船橋が架けられた。この時の舟橋奉行は大石十右衛門であったと記録されている。天下分け目の大坂の陣に向かう将軍父子の渡河が、渡船ではなく船橋によって行われたことは、この川渡りがいかに重要視されていたかを物語る。
朝鮮通信使と琉球使節 ── 国威を示す行列
江戸時代を通じて、朝鮮国からは将軍の代替わりなどを祝う「朝鮮通信使」が、慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)までの間に12回、日本を訪れている。資料が『日本交通史概論』(大島延次郎著)から引く一覧によれば、その人数は慶長12年(1607年)の謝礼修好で700人、寛永13年(1636年)の昌平奉賀で360人、正徳元年(1711年)の家宣就任祝いで371人、最後の文化8年(1811年)の家斎就任祝いで330人など、いずれも300人を超える大行列であった。
| 年代 | 西暦 | 来朝理由 | 人数 |
|---|---|---|---|
| 慶長12年 | 1607 | 謝礼修好 | 700人 |
| 元和3年 | 1617 | 天下統一の賀使 | 400人 |
| 寛永元年 | 1624 | 家光襲職 | 300余人 |
| 寛永13年 | 1636 | 昌平奉賀 | 360人 |
| 寛永20年 | 1643 | 家綱出生 | 480人 |
| 明暦元年 | 1655 | 家綱襲職 | 480人 |
| 天和2年 | 1682 | 綱吉 | 475人 |
| 正徳元年 | 1711 | 家宣 | 371人 |
| 享保4年 | 1719 | 吉宗 | 365人 |
| 寛延元年 | 1748 | 家重 | 400人 |
| 明和元年 | 1764 | 家治 | 400人 |
| 文化8年 | 1811 | 家斎 | 330人 |
資料は、これら朝鮮人使節・琉球人使節の来朝の際、天竜川に船橋が架けられたことがあると指摘している。江戸に遷都する以前、明治天皇の東京行幸の際にも天竜川の船橋を渡御されたとの記録があるといい、宝暦6年(1756年)の『遠江国豊田郡池田村郷差出帳』には「琉球人の来朝は12回、船橋が架けられている」との記述が見えるという。将軍の上洛や、四千人以上の大行列となる通行の際には船橋が架けられたと考えられており、行列の規模がおよそ七十人から百人程度の来朝の際にも船橋を架けることがあったのではないかと、資料は推測している。
朝鮮人・琉球人の使節に対しては、幕府は国威を国の内外に誇示するため、丁重にもてなした。使節側もまた、幕府に慶事があるたびに礼として遠路はるばる参府し、その都度、街道の宿駅や助郷農民には多大な負担がかかった。人馬の使用も多く、時には無償同然で助人足を出す義務があったといい、その賃銭は非常に安かったと資料は伝えている。江戸に遠く至るまでの行列を迎えた東海道沿いの助郷村々にとって、朝鮮通信使の通過は、産業の発展という効果もあった一方で、重い出役の負担でもあった。
船橋を支えた仕組み ── 鉄鎖と朱印地
船橋を組むためには、多数の船を横に並べてつなぎ止める鉄鎖や、渡り板、橋の左右に渡す手摺のような柵が必要であった。『東海道浜松宿大概帳』によれば、寛延4年(1751年)以後、船橋用の鉄鎖は長さ二百六十間余(約470メートル)が用意され、架橋の際に左右に取り付けられていたという。この鉄鎖はもとは小立野村の名主が保管していたが、寛延4年以後は池田村渡船方が保管するようになった。架橋の費用は基本的に公費でまかなわれたが、一部は村方の負担ともなっていたようである。
文化5年(1808年)の史料には、池田三村大明神領(高2石)や、禅曹洞宗正安寺の除地(高6斗6升7合)について、朝鮮人来朝の際に舟橋を架ける御用に付き課される負担を免除してほしいという、遠州豊田村池田村の名主・組頭からの願い上げ書が残る。朝鮮人来朝の際には、天竜川へ船橋を架ける御用に前々から関わりの薄い、寺社の朱印地・除地までもが、通例として負担を課されていたことがうかがえる。こうした個別の免除願いが繰り返し出されていたこと自体が、船橋のたびに周辺の村々や社寺が、少なからぬ負担を強いられていたことを物語っている。
渡船で日々を暮らす川が、時に将軍や外国使節を迎える国家的な舞台になる。船橋の記録は、天竜川という一本の川が背負った、二つの顔を今に伝えている。
船橋から、明治の架橋へ
江戸時代の船橋は、あくまで特別な通行のための臨時措置であり、恒久的な橋にはならなかった。徳川家康が天下を統一して以降、諸大名の参勤交代が制度化され、東海道の交通量が絶えず増大したが、それでも幕府は天竜川に恒久橋を架けることをしなかった。渡船と、必要な時だけ組まれる船橋という体制が、江戸時代を通じて続いたのである。
資料によれば、明治初年にも舟橋を架けようとする計画が持ち上がったことがあったが、多くの農民に課役を課しただけで実現には至らなかったという。恒久的な橋がようやく実現したのは明治7年(1874年)のことで、源平新田村と中野町村の間に「東海道天竜川橋」が架けられ、渡船と船橋の時代は幕を閉じていく。その経緯は天竜川池田の渡船の「むすび」でたどっている。
- 船橋のおもな記録
- 暦仁元年(1238)将軍上洛/建武2年(1335)新田義貞/永正11年(1514)今川氏親/永禄11年(1568)徳川家康/天正10年(1582)織田信長/慶長19年(1614)大坂冬の陣(家康・秀忠)/江戸期を通じ朝鮮通信使12回・琉球使節の来朝時
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