国分寺ものがたり | 子9
明治の廃寺 ── 上知令と国分寺の断絶
明治6年(1873年)、最後の住職が世を去り、国分寺は無住職・無檀家の寺となった。だが、檀家でもない境松の人々は、薬師堂と仏像を守ることをやめなかった。
上知令、寺社領を没収する
明治4年(1871年)、明治政府は寺社領を対象とする上知令を発した。さらに明治8年(1875年)にも同様の措置が続き、それまで寺社が保有していた境内地・寺領は、原則として国のものとされていった。国分寺も例外ではなかった。中泉の町の一角に千年余り伽藍を保ってきたこの寺は、明治の制度改革のなかで、経済的な基盤そのものを失うことになる。
没収の範囲は厳しいものだった。境内として存置が許されたのはわずか2畝ほどにとどまり、それ以外の伽藍地は民間へ払い下げられて畑になった。かつて本堂や諸堂が建ち並んでいたはずの土地に鍬が入り、作物が植えられる。寺の輪郭は、こうして地面の上から少しずつ消されていった。
廃仏毀釈の風と、遠江の寺々
上知令と並行して、全国的には廃仏毀釈の動きが広がっていた。神仏分離を機に、寺そのものを畳んで神社へ転じる例も各地で見られた。旧豊田郡の秋葉寺が神社化した事例は、その代表的なものとしてしばしば語られる。国分寺が置かれていた中泉の周辺も、こうした時代の空気と無縁ではなかった。
ただし国分寺の場合、廃仏毀釈そのものよりも、上知令による経済的な締め付けと、支える人の不在という二つの事情が重なったことが、廃寺への直接の道筋になったと見てよい。
安政の大地震で薬師堂が大破する
上知令に先立つこと十数年、安政元年(1854年)の大地震で、国分寺の薬師堂はすでに大きな被害を受けていた。『東海地方地震津波史料』には「大破国分寺、閻魔堂薬師堂潰」という記述が残る。閻魔堂と薬師堂が潰れたという簡潔な一文だが、当時の被害の大きさを伝えるには十分である。
建物の傷みを抱えたまま明治の上知令を迎え、寺は修繕のための余力も、それを担う組織的な基盤も失っていく。地震による物理的な打撃と、上知令による経済的な打撃が、時期をずらして二重に国分寺を痛めつけたことになる。
最後の住職、鈴木浄儀の死
明治5年(1872年)、国分寺には鈴木浄儀という住職がいた。だが翌明治6年(1873年)、浄儀は71歳で世を去る。跡を継ぐ者は現れなかった。住職がいなくなり、檀家もいない。上知令によって寺領を失った上に、寺を運営する主体そのものが消えてしまえば、寺は制度上「廃寺」として扱われるほかない。国分寺は、こうして無住職・無檀家のまま廃寺となった。
寺が廃寺になるというのは、単に建物が古びて朽ちるという話ではない。住職を失い、檀家を失い、行政上の位置づけを失うということである。国分寺という名は残っても、寺としての実体は、この時点でいったん途切れたと見るべきだろう。
『風俗画報』が記録した、廃寺後の光景
廃寺から二十年ほど経った明治25年(1892年)、成瀬眞三は『風俗画報』第245号に国分寺の当時の様子を書き記している。そこには、荒れるに任せた境内の記録と同時に、この場所をどうにか再生させられないかという模索も記されていた。廃寺後の国分寺が、忘れ去られていたわけではなく、当時から気にかけていた人々がいたことが、この記録からうかがえる。
もっとも、記録に残る「模索」がすぐに形になったわけではない。国分寺の再生が実を結ぶのは、このさらに後、昭和になってからのことである。
境松の人々が、薬師堂を守り続けた
廃寺後、伽藍地の大半は民間へ払い下げられ、畑に姿を変えた。それでも、境内に安置されていた行基菩薩作と伝えられる薬師如来だけは、失われることなく守り継がれた。守ったのは、国分寺の檀家ではない。境松の信徒たちである。
檀家でもない者が、なぜ廃寺になった寺の仏像を守り続けたのか。史料はその心情まで詳しく語ってはいない。ただ、境松という地名に薬師堂が結びつき、地域の暮らしの中に仏像への信仰が根を張っていたことは間違いない。寺という制度は途切れても、仏像を守るという行為は途切れなかった。この一点が、廃寺後の国分寺をつなぎとめた最大の理由である。
明治11年(1878年)、国分寺には「存置許可」が下りる。境松の信徒たちが薬師如来を守り続けた事実が、この許可の背景にあったとされる。制度上は消えた寺が、地域の人々の手によってかろうじて命脈を保った瞬間である。
史跡指定へ、そしてその先へ
その後、国分寺跡は大正12年(1923年)に史跡指定を受け、昭和27年(1952年)には特別史跡の指定を受けるに至る。廃寺から半世紀余りを経て、この土地が古代の遺跡として国に認められたことになる。発掘調査の詳細や、国分寺跡の考古学的な位置づけについては、既出の記事「遠江国分寺跡と、古代磐田のはじまり」に譲りたい。
檀家ではない者が守ったもの
上知令、廃仏毀釈、大地震、最後の住職の死。国分寺を廃寺へ追い込んだ要因はいくつも重なっている。しかし、それらすべてを経てもなお、境松の薬師堂と仏像だけは残った。守ったのは寺の関係者ではなく、地域の信徒たちだった。この関係のねじれ──檀家でもない人々が、廃寺になった寺の仏を守り続けたという事実──が、次の時代、昭和の国分寺復興を準備することになる。
参考資料
- 『東海地方地震津波史料』(安政元年〔1854年〕の地震被害記録、「大破国分寺、閻魔堂薬師堂潰」の記述)
- 成瀬眞三『風俗画報』第245号(明治25年〔1892年〕)
- 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年発行、pp.41-43参照)
本文は上記資料に記された事実関係をもとに再構成したものであり、原文の引き写しではありません。
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