国分寺ものがたり | 子10
森本善苗尼と近藤文六 ── 昭和の国分寺復興
廃寺になって80年近くが過ぎた昭和初期、一人の尼僧が境松の招きで国分寺に入った。森本善苗尼と、その傍らを支え続けた近藤文六の物語である。
境松からの招き
前ページで見たように、明治6年(1873年)に最後の住職が世を去って以来、国分寺は無住職・無檀家の寺となっていた。境内に残った薬師堂と諸仏を守り続けたのは、寺の檀家ではなく、国分寺に隣接する境松の住民たちである。廃寺から半世紀余りが過ぎた昭和初期、その境松に暮らす小林吉重氏らが、一人の尼僧を国分寺へ招いた。森本善苗尼である。
森本善苗尼は、慶応元年(1865年)、袋井市山梨の生まれとされる。出家までの経緯を詳しく伝える記録は多くないが、大正10年(1921年)、56歳のときに新義真言宗豊山派に入ったことが分かっている。律師、権律師という位階を経て、昭和17年(1942年)、77歳で国分寺の特任住職となった。得度から住職就任までに20年余りを要している計算になり、けっして若くして寺を任された人ではない。半生を過ぎてから僧籍に入り、老いてなお国分寺の再建に関わり続けたことになる。
小林氏らがなぜ善苗尼を招いたのか、招請の経緯そのものを詳細に記す史料は残っていない。ただ、無住職のまま仏堂だけが残る状態を、寺として立て直したいという境松の住民の意志があったことは、その後の展開から読み取れる。守り続けてきた薬師堂に、ようやく住職を迎える段階に至った、という理解が自然だろう。
薬師堂新築への願い ── 昭和5年の陳情
善苗尼が国分寺に入る前後、地元では薬師堂そのものを新しく建て替えようという動きが具体化していた。昭和5年(1930年)、地元住民29名の連名により、静岡県知事に対して薬師堂新築の要望が提出されている。無住職の仏堂であっても、地域の信仰の場として維持し続けようとする住民の姿勢がここにも表れている。
この要望は昭和7年(1932年)に改築許可が下り、昭和期の薬師堂として完成した。現在も国分寺境内に伝わる薬師堂の姿は、このときの改築によるものである。廃寺後、檀家という後ろ盾を持たない住民たちが、行政手続きを重ねてまで堂を守り続けたことは、単なる建物の維持を超えて、地域の信仰の継続そのものを示している。
あわせて、西境松28戸が共同で管理してきた諸仏と、境内60余坪の土地が、無償で寺側に譲渡された。長く檀家として支えてきた住民が、私財に近い形で守ってきたものを手放し、寺という制度に戻していく動きである。ここに、境松の人々が積み重ねてきた維持の歴史と、善苗尼を迎えて再び寺院としての体裁を整えようとする動きが、ひとつに重なっていく。
仏堂から寺院へ ── 昭和15年の認可申請
薬師堂の新築が実現したあとも、法制度上は仏堂の扱いのままであった。これを正式な寺院とするための認可申請が行われたのは、昭和15年(1940年)のことである。申請には、信徒785名分の名簿などが添えられたと伝えられる。境松一帯にとどまらず、広い範囲の信徒が名を連ねたことは、国分寺の再興が一部の関係者だけの動きではなく、地域として支持された事業であったことをうかがわせる。
申請から2年近くを経て、昭和17年(1942年)3月5日、「県知事ヨリ国分寺認可ス」という記録が残る。この一文をもって、明治6年(1873年)の廃寺以来、名実ともに絶えていた寺院としての国分寺が、法的にも復活したことになる。同じ昭和17年に善苗尼が特任住職となっていることから、認可と住職就任がほぼ同時に進んだ事業であったことが分かる。
復興にあたり、国分寺は東京・荒川区にある新義真言宗の寶藏院の寺籍に入る経緯をたどっている。地元だけで完結する再興ではなく、宗派の本山筋にあたる寺院とのつながりを経て、制度上の位置づけを整えていったことになる。
近藤文六氏 ── 信徒代表として支えた日々
この認可申請から住職就任に至る一連の事業を、信徒代表として支え続けたのが近藤文六氏である。近藤家に伝わる記録類は、県知事宛の申請文書をはじめ、国分寺復興の経緯を今に伝える中心的な史料となっている。これらをすべて分類し保存したのも近藤氏であった。もし近藤氏の手による整理がなければ、昭和期の国分寺復興の経緯は、これほど具体的な形では伝わらなかったはずである。
近藤氏の役割は、書類の保存にとどまらない。昭和18年(1943年)、太平洋戦争のさなか、高齢となった善苗尼を自宅に迎え入れ、看病にあたったのも近藤氏であった。善苗尼は、その近藤家で息を引き取っている。寺の再興に生涯の後半をかけた尼僧の最期を、血縁ではない信徒代表が看取ったことになる。
近藤氏は僧籍を持たない俗人であったが、その功績により、国分寺墓地に墓が建てられた唯一の俗人となっている。寺という制度の外にいながら、寺を支え続けた人物に対して、寺の側がその存在を墓という形で残した。これは、境松の住民が檀家でもないまま堂を守り続けてきたこの一帯の歴史と、根を同じくする出来事だろう。
五輪塔の銘文 ── 読み残された一文字
国分寺境内には、善苗尼を弔う五輪塔が今も残る。刻まれた銘文は「権正僧都(梵字)善苗尼不生縁(カ)」と伝えられているが、末尾の「縁」の一字については、判読に疑問が残るとされ、資料上も「(カ)」の注記付きで扱われている。長い年月を経た石塔の常として、風化により刻字の一部が読み取りにくくなっている可能性は高いが、ここで推測により文字を確定させることは避けたい。現地で銘文を確認する際も、この一字については判読が難しい箇所として留意する必要がある。
銘文の全体が明確に読み取れないとしても、そこに「善苗尼」の名と僧としての位階が刻まれていること自体は、廃寺から昭和の認可に至るまでの歩みを、この境内で確かに生きた一人の証として今に伝えている。
廃寺から80年、境松が守り継いだもの
明治6年(1873年)の廃寺から、昭和17年(1942年)の国分寺認可まで、実に70年近くの歳月が流れている。前ページで描いたとおり、この間、国分寺には正式な住職も檀家もいなかった。それでも境松の住民たちは、薬師堂と仏像を守ることをやめず、昭和5年(1930年)の新築要望、そして境内地と諸仏の無償譲渡という形で、寺を再び立ち上げるための土台を用意し続けた。
その土台の上に、56歳で出家した森本善苗尼が住職として迎えられ、信徒代表の近藤文六氏がそれを支え、785名の信徒名簿とともに認可申請が行われた。檀家でもないのに堂を守り続けた人々の思いが、一人の尼僧と一人の信徒代表の手によって、制度としての「国分寺」という形に結実したのが、この昭和の時代であったといえる。
参考資料
- 県知事宛 薬師堂新築・国分寺認可に関する申請文書等の記録(近藤家伝来)
- 国分寺境内 五輪塔銘文の現地確認
- 小杉達 著『国分寺ものがたり』(国分寺奉賛会、令和4年発行)43〜47頁
本文は上記資料に基づき、年表・経緯として再構成したものです。銘文の判読が難しい箇所は、資料の表記に従い断定を避けています。
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