国分寺ものがたり | 子7
遠江四十九薬師霊場と庶民の信仰 ── 絵馬・巡礼・木喰上人
国分寺薬師堂は、遠江四十九薬師霊場の第一番札所である。国家の寺として始まった場所が、江戸時代には、健康を願う庶民の祈りの場になっていた。
薬師霊場の第一番札所
国分寺という名前は、奈良時代に国家が建てた寺という由来をそのまま背負っている。しかし江戸時代の国分寺は、朝廷や国司のための寺ではなく、境内の薬師堂に病気平癒を願って手を合わせる、ごく普通の人たちの寺になっていた。その姿を今に伝えているのが、遠江四十九薬師霊場の第一番札所という位置づけである。
遠江四十九薬師霊場は、遠江国内にある薬師如来をまつる四十九か所の寺を巡る霊場で、国分寺薬師堂はその一番目に数えられている。一番札所という扱いは、国分寺が古代以来の由緒を持つ寺として、遠江の薬師信仰の中でも別格の位置に置かれていたことを示している。巡礼者は国分寺から巡拝を始め、遠江各地の薬師堂を順にたどっていくことになる。
国分寺には、この霊場に結びつく御詠歌も伝わっている。
国分寺の御詠歌
国を分け しるしに植えし 境松 木陰涼しき 瑠璃の浄土や
「境松」は国分寺の境内、あるいは寺域の境目に植えられた松を指すと考えられ、「瑠璃の浄土」は薬師如来の浄土である瑠璃光浄土のことである。国を分けた印として植えられた松の木陰に、薬師如来の涼やかな浄土を重ねて詠み込んだ歌で、国分寺という古代からの由緒と、薬師信仰という庶民の祈りが、一首の中で結びついている。
享保17年(1732年)に始まった霊場巡り
遠江四十九薬師霊場の巡拝がいつ始まったのかは、江戸時代後期に編まれた地誌『遠淡海地志』に記録が残っている。それによれば、霊場巡りは享保17年(1732年)に始まったとされる。江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の治世にあたる時期で、各地で観音霊場や薬師霊場の巡礼が盛んになっていった時代でもある。
『遠淡海地志』が編まれたのは天保5年(1834年)で、享保17年の開創から数えると、すでに100年ほどが経過していた。つまりこの記録は、霊場巡りが一時の流行で終わらず、1世紀にわたって遠江の人々の間で受け継がれてきたことを裏付けるものでもある。国分寺の薬師堂は、その最初の一歩を担う場所として、巡礼者たちに知られていたことになる。
四十九という数字は、薬師如来の眷属である十二神将や、薬師如来が立てた四十九の誓願になぞらえたものとも考えられているが、遠江四十九薬師霊場そのものの由来を詳しく記した史料は多くない。それでも、国分寺が一番札所に据えられた事実は、中泉の地が古代の国府・国分寺以来、遠江における宗教的な中心地であり続けたことを物語っている。
安政元年(1854年)の絵馬 ── 岡田村の女性の祈り
国分寺には、病気平癒祈願のために奉納された絵馬が伝わっている。年代がわかるものとしては、安政元年(1854年)に岡田村の女性が奉納した絵馬がある。安政元年は、黒船来航の翌年にあたり、東海地方では同年に安政東海地震が起きた年でもある。世情が大きく揺れ動く中で、一人の女性が薬師如来に病気平癒を祈り、絵馬を奉納したという記録が、国分寺に残されている。
この絵馬をめぐっては、国分寺奉賛会が発行した『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年発行)の中で、3人の女性の祈願にまつわる物語が紹介されている。ただし、これは史実として裏付けられた逸話ではない。著者の小杉達氏自身が、これは筆者の想像であると断った上で述べているものである。
小杉氏は、絵馬に込められた祈りの背景として、岡田村の女性を含む3人の女性が、それぞれの事情を抱えながら薬師如来に病気平癒を願う姿を想像を交えて描いている。誰がどのような病を患い、どのような思いで国分寺まで足を運んだのか。そうした具体的な情景は史料には残っておらず、あくまで小杉氏が絵馬という物証から起こした想像上の物語である。絵馬そのものが安政元年に奉納された事実と、そこに込められた物語的な肉付けとは、はっきり分けて理解する必要がある。
それでも、この絵馬が伝えているものは確かにある。江戸時代後期の中泉の村々で、薬師如来への信仰が、家族の病を治したいという切実な願いと結びついていたという事実である。国家の寺として出発した国分寺が、100年余りの時を経て、名もない女性が一枚の絵馬に祈りを託す場所になっていた。その変化こそが、この絵馬の持つ意味だといえる。
木喰上人、寛政12年(1800年)の参詣
国分寺の信仰史を語るうえで欠かせないもう一つの記録が、木喰上人の参詣である。木喰上人は、全国を行脚しながら独特の微笑みを浮かべた木彫仏を残したことで知られる江戸時代後期の僧で、諸国の霊場や古寺を訪ね歩いたことでも知られている。その木喰上人が国分寺を訪れたのは、寛政12年(1800年)、上人が83歳のときのことである。
晩年に近い年齢での参詣であることを考えると、木喰上人にとって国分寺への参詣は、単なる通りすがりの一寺ではなく、遠江の薬師霊場の第一番札所として、訪ねておくべき寺という認識があったのではないかと想像させる。全国を旅した高僧の記録に名を残す寺であったという事実は、国分寺が江戸時代を通じて、地域を越えて知られた信仰の場であったことを裏付けている。
境内に残る石仏群と新四国八十八か所
国分寺の境内には、石仏群や観音像も並んでいる。これらは薬師霊場としての信仰とは別に、境内が長い年月をかけて、庶民の様々な祈りの受け皿になっていったことを示している。中でも注目されるのが、新四国八十八か所の33番目の札所として、大正9年(1920年)に開設されたことである。
新四国八十八か所は、四国遍路を模して各地域内に写し霊場として設けられたもので、遠方まで出向かなくても、四国霊場を巡ったのと同じ功徳を得られるとされた巡礼路である。大正9年という時期は、国分寺がすでに薬師霊場の第一番札所という古くからの位置づけを持ちながら、なお新しい巡礼の形をも取り込み、信仰の場として更新され続けていたことを示している。境内の石仏群は、そうして積み重なった祈りの跡でもある。
昭和52年(1977年)の奉賛会発足とバス巡拝
遠江四十九薬師霊場の巡拝は、近代以降も途切れることなく続いた。昭和52年(1977年)には遠江四十九薬師奉賛会が発足し、組織立った形で霊場を守り、巡拝を支える体制が整えられた。これ以降、巡拝は個人の徒歩による参詣だけでなく、バスを仕立てての巡拝という形でも行われるようになっている。
近年は新型コロナウイルスの流行により、一時期、巡拝そのものが中止を余儀なくされた時期もあった。しかし流行が落ち着くとともに巡拝は再開され、享保17年(1732年)に始まったとされる巡礼の歴史は、形を変えながらも現在まで受け継がれている。国分寺の門前に立てば、奈良時代の国分寺建立から、江戸時代の絵馬、そして令和のバス巡拝まで、同じ場所を訪れ続けてきた人々の重なりを感じることができる。
国家の寺から、庶民の祈りの場へ
国分寺は、聖武天皇の詔によって全国に建てられた国家鎮護の寺として出発した。しかし遠江四十九薬師霊場の第一番札所としての国分寺を眺めると、そこにあるのはむしろ、家族の健康を願う名もない人々の祈りである。岡田村の女性が奉納した絵馬も、木喰上人の参詣も、大正9年に開設された新四国八十八か所の札所も、いずれも国家の寺という出自とは別の文脈で、国分寺という場所を支えてきた。
中泉の町を歩き、国分寺の境内で薬師堂と石仏群を見比べると、古代の礎石と江戸時代以来の信仰の痕跡が、同じ敷地の中に重なっていることに気づく。国を分けた印の松の木陰に涼を求めた奈良時代の祈りと、病気平癒を願って絵馬を奉納した江戸時代の祈りは、形こそ違え、同じ根から生まれたものだろう。健康を願う心という、時代を問わず変わらない祈りの連続性が、この一番札所には刻まれている。
参考資料
- 『遠淡海地志』(天保5年・1834年)
- 国分寺境内の絵馬・石仏群の現地確認記録
- 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年発行)pp.36-37
本文中で紹介した3人の女性の祈願にまつわる物語は、『国分寺ものがたり』の著者・小杉達氏が絵馬をもとに想像を述べた部分であり、史実として確認されたものではない。
家・土地・空き家の整理について相談する
国分寺の千年をたどると、土地には登記簿だけでは分からない来歴が積み重なっていることが分かります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。