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国分寺ものがたり | 子2

鎌倉時代の国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき

建久2年(1191年)、源頼朝は国司に国分二寺の修造を命じた。それから18年後の承元3年(1209年)、遠江国府中の記録に現れるのは「国分寺」ではなく「薬師堂」という呼び名だった。

頼朝が命じた「国分二寺」の修造

建久2年(1191年)、鎌倉幕府を開いて間もない源頼朝は、諸国の国司に対して国分二寺、すなわち国分寺と国分尼寺の修造を命じたと『吾妻鏡』に記されている。前ページで見たように、遠江国分寺は平安中期の治安2年(1022年)にすでに講堂を大風で失い、修復と勘査の手続きに時間を要していた。それから150年以上が過ぎ、時代は摂関政治から武家政権へと移ったが、国分寺という制度そのものは、少なくとも名目上はまだ生きていたことになる。

頼朝がこの時期にあらためて国分二寺の修造を命じた背景には、諸国の国分寺が各地で荒廃し、寺領や堂舎の維持が滞っていた事情があったと考えられる。遠江国分寺がこの時どのような状態にあったか、修造令を受けてどこまで実際に手が入ったかを直接語る史料は見つかっていない。ただし、この命令自体が、国分寺という古代以来の仕組みが鎌倉初期の段階でもなお公的な修造の対象として扱われていたことを示している。

遠江守・安田義定と義経探索の記事

頼朝の修造令に先立つ文治2年(1186年)、『吾妻鏡』には当時の遠江守であった安田義定朝臣が、岩室の山寺で源義経の行方を探索したという記事がある。これは国分寺そのものについての記録ではないが、遠江国司として義定の名が史料に現れる数少ない事例であり、平氏滅亡後の混乱期に、遠江の国司が幕府の指示のもと在地の寺社を含めて動いていた様子をうかがわせる。国分寺の記録が乏しいこの時期に、遠江守の動静を伝える関連記事として、修造令の背景を考えるうえで参考になる。

本尊はなぜ変わったのか ── 釈迦から阿弥陀へ、そして薬師へ

本特集の前ページで扱ったのは、治安2年に倒れた講堂とその中にあった仏像である。奈良時代創建当初の遠江国分寺の本尊は、聖武天皇の詔にならえば釈迦如来であったと考えられている。ところが平安中期になると、貴族社会に広がった浄土信仰の影響を受けて、地方の国分寺でも本尊が阿弥陀如来に置き換わっていった例が各地で知られており、遠江国分寺もその流れの中にあったとみられる。

そして鎌倉時代に入ると、遠江国分寺をめぐる史料に、それまでとは異なる仏の名が現れるようになる。薬師如来である。薬師如来は病気平癒や現世利益を強く担う仏として、武家の時代に各地で広く信仰を集めた仏でもある。本尊が釈迦如来から阿弥陀如来へ、さらに薬師如来へと移っていった経緯を、一つの史料が明確に「宣言」しているわけではない。記録の断片と、後世まで薬師信仰が続いたという事実を重ね合わせたときに、そのような変遷があったと考えられる、という性格のものである。

承元3年の記録 ── 「国分寺」ではなく「薬師堂」

建久2年の修造令から18年後にあたる承元3年(1209年)、遠江国府中で大般若経の書写が行われた記録が残っている。『静岡県の地名』(平凡社)によれば、この時の書写の場を示す記載は「遠江国府中薬師堂敷地」であり、「国分寺」という語ではなく「薬師堂」という呼び名が用いられている。

これは推定ではなく、記録上の呼称そのものの変化として確認できる事実である。奈良時代創建時に定められた「国分寺」という正式な寺号が、鎌倉初期の実務上の記録の中では、すでに本尊にちなむ「薬師堂」という呼び方に置き換わっていたことになる。寺の起源や由緒が忘れられたわけではないだろうが、日々の信仰や書写供養の場としては、巨大な伽藍を構えた「国分寺」という存在よりも、薬師如来を祀る一堂としての「薬師堂」の方が、当時の人々にとって実感のある呼び名になっていたと考えられる。

年代できごと本尊・呼称にみえる変化
奈良時代(8世紀)遠江国分寺創建本尊は釈迦如来と考えられる
平安中期浄土信仰の広がり本尊が阿弥陀如来へ移ったとみられる
治安2年(1022年)大風で講堂倒壊、太政官へ修復を申請「国分寺」の呼称のまま記録される
文治2年(1186年)遠江守・安田義定が岩室の山寺で義経を探索国分寺そのものの記事ではないが関連記事
建久2年(1191年)源頼朝が国司に国分二寺の修造を命じる「国分寺」「国分尼寺」の呼称で命令される
承元3年(1209年)「遠江国府中薬師堂敷地」で大般若経を書写「薬師堂」という呼称で記録される

巨大伽藍から一堂へ ── 同じ場所で続いた信仰

遠江国分寺の伽藍は、創建当初は金堂・講堂・七重塔などを備えた壮大な規模を誇っていたと推定されている(伽藍の詳しい構成や創建期の様子については、特集ポータルからn001.htmlをあわせて参照されたい)。しかし治安2年の講堂倒壊のように、地方の国分寺は平安期を通じて維持管理に苦しみ、鎌倉初期までにはかつての伽藍の多くが失われていたとみられる。それでも信仰の場そのものが途絶えたわけではなく、承元3年の記録が示すように、同じ敷地の中に薬師如来を祀る堂が建ち、経典の書写や供養といった宗教活動が続けられていた。

現在、磐田市見付にある遠江国分寺跡の東側には、今も薬師堂が建っている。伽藍の規模は奈良時代とは比べものにならないほど小さくなったが、その堂が建つ位置は、天平の昔から途切れることなく信仰が続いてきた場所だと考えられている。巨大な伽藍が一つの堂へと姿を変えながらも、本尊への祈りだけは絶えなかった、というのが、この特集全体を通して見えてくる遠江国分寺の姿である。

この記事で扱う範囲

本項では、建久2年の源頼朝による国分二寺修造令、文治2年の安田義定による義経探索の関連記事、そして承元3年の「遠江国府中薬師堂敷地」という記録を軸に、遠江国分寺の本尊が釈迦如来から阿弥陀如来、さらに薬師如来へと移っていったと考えられる過程と、寺号が「薬師堂」という呼び名に置き換わっていった経緯を扱った。本尊の変遷そのものは推定を含むが、1209年の記録に「薬師堂」の語が使われている点は史料上の事実である。

参考資料

  • 『吾妻鏡』建久2年(1191年)条 ── 源頼朝による国分二寺修造の命
  • 『吾妻鏡』文治2年(1186年)条 ── 遠江守・安田義定朝臣による義経探索の関連記事
  • 『静岡県の地名』(平凡社)p1028 ── 承元3年(1209年)「遠江国府中薬師堂敷地」での大般若経書写の記録
  • 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年発行)pp.23-24

本文中の年代・記録の解釈は上記資料に基づき筆者が再構成したものです。本尊の変遷にかかわる記述は史料と出土状況からの推定を含みます。

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