失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

国分寺ものがたり | 子6

卵塔墓が語る260年 ── 国分寺住職たちの墓碑を読む

文字の記録が乏しい寺の歴史を、石は語ることがある。国分寺の墓地に残る14基の卵塔墓は、憲能から真浄まで、約260年にわたる住職たちの歩みを今に伝えている。

文字が残らなくても、石は残る

国分寺のように長く続いた寺であっても、江戸期を通じた住職の交代や日々の営みを記した文書がまとまって残っているとは限らない。中泉代官所とのやり取りや薬師堂再興の経緯は前ページで見た通り断片的に記録が残るが、誰がいつ住職を務め、いつ亡くなったかという最も基本的な事実は、境内の墓地に立つ石塔からしか読み取れない場合が多い。

国分寺の墓地には、歴代住職や寺にゆかりのある人物の墓塔が14基残っている。形式は五輪塔、舟形(舟形光背をかたどったもの)、角柱型など一様ではなく、風化や火災による損傷で銘文の判読が難しいものも少なくない。それでも、読み取れる範囲の年号と法名をつなぎ合わせると、江戸初期の憲能から明治初期の真浄まで、およそ260年にわたって寺の住職が途切れずに続いたことが浮かび上がってくる。

境内に残る14基の墓塔

以下は境内の墓地で現地確認できた墓塔の一覧である。年代や記載事項が風化などで判読できないものは、推測で埋めずに「不詳」「○」のまま示す。

番号形式年代人物記載事項
五輪塔1682年(天和2年)没憲能法名・没年月日が判読できる。国分寺住職として最も古い年代が確認できる墓塔
不詳不詳不詳風化により判読できない
不詳不詳不詳風化により判読できない
舟形不詳不詳舟形光背の輪郭のみ確認できるが、銘文は判読できない
角柱不詳不詳一部の文字のみ判読できるが、年代を特定できない
不詳不詳不詳不詳
角柱1872年(明治5年)没真浄薬師堂の片隅で寺子屋を開いていたと伝わる住職。「筆子中」による建立の記録がある
不詳不詳不詳不詳
不詳不詳不詳不詳
不詳不詳不詳不詳
不詳不詳不詳火を受けたとみられ、石材が赤く変色している
不詳不詳不詳不詳
不詳不詳不詳不詳
舟形1765年(明和2年)花屋春法回国行者の墓とみられる。住職の墓塔とは別に、行脚の途上で国分寺に留まった人物と考えられる

①から⑦まで番号を振ったのは、法名と没年がある程度判読できる住職の墓塔である。それ以外の墓塔は、形式の分類はできても法名・年代を特定できないものが多く、「不詳」の記載が並ぶ。この判読できなさ自体が、260年という歳月と、寺という場所が受けてきた風雨や火災の跡を物語っている。

妻を持たず、師から弟子へ ── 師資相伝という継承のかたち

国分寺の住職は、代々血縁で継がれてきたわけではない。仏門にある僧侶は妻帯せず、寺は師資相伝、すなわち師僧から弟子僧へと法を伝えるかたちで住職の座を継承してきた。弟子は掛川の龍華院や比叡山延暦寺など、格式のある寺で修行を積んだのち、縁あって国分寺の住職として迎えられている。

血のつながりに頼らない継承だからこそ、代替わりのたびに新しい人物が外から入ってくる。憲能から真浄まで、名の残る住職だけでも複数の代替わりを経ており、その一人ひとりが薬師堂の護持や地域との関わりを担ってきた。墓塔が語るのは、単なる没年の羅列ではなく、こうして絶えず外部から人を迎え入れながら維持されてきた、ひとつの寺のかたちである。

薬師堂の片隅の寺子屋 ── 住職・真浄と「筆子中」

14基のうち、墓塔とその周辺の記録から人物像がもっとも具体的に浮かび上がるのが、1872年(明治5年)に没した⑦真浄である。真浄は薬師堂の片隅に机を並べ、近隣の子どもたちに読み書きを教える寺子屋を開いていたと伝わる。江戸後期から明治初期にかけて、寺や神社の境内で開かれる寺子屋は各地に見られたが、国分寺の場合はそれが薬師堂という、住民が薬師如来に日々手を合わせに来る場所と重なっていた点に特徴がある。

真浄の墓塔には、「筆子中」による建立であったことをうかがわせる記録が残る。筆子中とは、寺子屋で学んだ教え子たちの集まりを指す言葉で、恩師の墓を教え子たちが共同で建てるという習わしは、江戸期の寺子屋文化に広く見られたものである。国分寺の場合も、真浄に読み書きを教わった中泉の子どもたちが、大人になってから師の墓を建てたのだろうと推測できる。文書には残らない、住職と地域の子どもたちとの結びつきを、この一基の墓塔が伝えている。

回国行者の墓、火事の跡 ── 石に刻まれたもうひとつの歴史

14基の中には、国分寺の住職ではない人物の墓塔も含まれている。⑭にあたる舟形の墓塔には、1765年(明和2年)の年号とともに花屋春法という名が刻まれている。花屋春法は諸国の霊場を巡り歩く回国行者であったとみられ、行脚の途上で国分寺に立ち寄り、この地で生涯を終えたか、あるいは寺と縁を結んで墓を建てられたものと考えられる。住職の系譜とは別に、こうした行者の墓が境内に加わっていることは、国分寺が地域の外からも人が訪れる場所であったことを示している。

また、墓塔の中には火を受けたとみられ、石の表面が赤く変色しているものがある。国分寺は江戸期から幾度か火災に見舞われた記録があり、薬師堂も再興を重ねてきたことは前ページで触れた通りだが、墓地の石塔にもその爪痕が刻まれている。焼けた石は年号や法名の判読をいっそう難しくしており、⑧から⑬にかけて「不詳」が並ぶ一因ともなっている。

なお、天保13年(1842年)には薬師如来の開帳が行われた記録があり、この時期の国分寺が薬師堂を中心に一定のにぎわいを保っていたことがうかがえる。墓塔の並びだけでは分からない寺の活気を、こうした周辺の記録が補っている。

龍華院40体との対比 ── 小規模寺院が刻んだ260年

師資相伝で僧を送り出していた掛川の龍華院は、朱印高100石余を有する格式高い寺で、卵塔墓だけでも40体ほどが境内に残るという。これに対して国分寺の墓塔は14基にとどまり、規模の差は数字の上でも明らかである。

ただし、基数の少なさをそのまま寺の格の低さと読むのは早計だろう。国分寺の墓塔群が語っているのは、江戸初期の憲能から明治初期の真浄まで、途切れることなくおよそ260年にわたって住職が置かれ続けたという事実である。朱印地を多く抱える大寺院ではなくとも、中泉の一角で薬師堂を守り、寺子屋を開き、行き交う行者を受け入れながら、小規模なりに寺として機能し続けた歴史が、14基という数の中に凝縮されている。

墓地の場所も移り変わった

現在、国分寺の墓地は新薬師堂の西側に位置しているが、これは最初からの場所ではない。もともとの墓地は旧薬師堂の西側にあり、薬師堂が再興・移転される過程で、墓地もあわせて現在地へと移設されたと伝えられている。堂宇だけでなく、住職たちの眠る場所そのものが動いてきたという事実も、国分寺の歩みが一直線ではなかったことを物語っている。

石塔を訪ねるだけでは分からないこうした来歴は、現地で墓地の位置関係を確認し、周辺の言い伝えと突き合わせて初めて見えてくるものである。文字史料が乏しい寺の歴史を読み解くには、境内を歩き、石そのものと、そこに残された地形や配置の記憶とを重ね合わせる作業が欠かせない。

石造物から歴史を読むということ

国分寺の住職たちの歩みは、日記や由緒書のようなまとまった文書としては残っていない。分かっているのは、境内に残る14基の墓塔と、そこに刻まれた(あるいは刻まれていたはずが失われた)法名・年号だけである。判読できない部分を無理に埋めず、「不詳」は「不詳」のまま記録し、分かる範囲の事実を積み重ねていく。地味な作業ではあるが、それこそが文字の記録に乏しい寺の歴史に近づく、ほぼ唯一の方法である。

参考資料

  • 国分寺境内の墓塔・石造物、現地確認記録
  • 小杉達『国分寺ものがたり』(国分寺奉賛会、令和4年発行)pp.29-32

墓塔の年代・法名のうち風化等により判読できないものは、推測を交えず「不詳」「○」として記載した。

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