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国分寺ものがたり | 子8

境松の門前町 ── 東海道の立場と饅頭屋のあった風景

境松は、見付と中泉の「境」にある町である。東海道の立場として旅人を迎え、国分寺薬師堂の門前として暮らしを営んできた、その名の通りの土地である。

見付と中泉の「境」にある町

境松という地名は、その成り立ちを素直に語っている。見付と中泉、2つの町の境目にあたる場所だったからこそ、境松と呼ばれるようになった。旧東海道が国分寺跡のそばを通り抜けていくこの一帯は、江戸時代を通じて、見付宿の喧騒とも、中泉代官所や国分寺門前の暮らしとも地続きの、独特の位置にある町だった。

それを裏づける記録が、社名の書き方に残っている。県社・八幡宮(現在の府八幡宮)は、古い記録では「中泉町境松」と記され、天御子神社は「見付町境松」と記されていた。同じ境松という地名が、一方では中泉町の一部として、もう一方では見付町の一部として扱われていたことになる。境松がどちらか一方に属する町ではなく、見付・中泉の双方にまたがって存在した町だったことを、この書き分けはよく示している。

この見付・中泉という2つの町の関係が大きく動いたのは、昭和15年(1940年)のことである。この年、見付町と中泉町が合併し、1つの磐田町となった。さらに昭和17年(1942年)には、磐田町役場が国分寺跡の南側、現在の場所へと移転している。境松は、見付でも中泉でもある町として、この合併の歴史をすぐそばで見てきた土地でもある。

東海道の立場としての境松

境松のもう1つの顔は、東海道の立場(たてば)としてのものである。立場とは、宿場と宿場の間、あるいは宿場の中でも旅人が一息つくための休憩所を指す。境松は見付宿の東海道筋にあたり、旅人や荷を運ぶ人足が足を止める場所として機能していた。

その規模を伝える記録が、文政6年(1823年)のものである。この時点で、境松には門前百姓13軒・50人が暮らしていたと記録されている。国分寺薬師堂の門前という性格と、東海道の立場という性格を併せ持つ、小さいながらも活気のある町だったことがうかがえる。

境松の茶店の賑わいは、当時のよく知られた紀行文にも描かれている。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、境松の茶店の場面が登場する。弥次さん喜多さんの旅の道中に描き込まれるほどに、境松の立場は東海道を行き交う人々にとって印象に残る存在だったのだろう。旅の記録の中に地名として刻まれていること自体が、この町の存在感を物語っている。

「八幡宮 宮のまへ饅頭名物也」──『一目玉鉾』が伝える名物

境松を語るうえで欠かせないのが、饅頭屋の存在である。元禄2年(1689年)に刊行された『一目玉鉾』という書物には、「八幡宮 宮のまへ饅頭名物也」という一文がある。八幡宮の宮の前、つまり境松のあたりで饅頭が名物として売られていたことを伝える記述である。

元禄期といえば、江戸時代の前半にあたる。この頃すでに境松が、東海道を行く旅人に名物の饅頭で知られる町として、案内記に名を残すほどの評判を得ていたことになる。国分寺の門前、八幡宮の宮前という立地が、参詣客と道中の旅人の双方を集める土地柄をつくり、そこに商いが根づいていったのだろう。

この饅頭屋の系譜については、興味深い伝承が中泉に残っている。中泉の菓子勇本店は、境松で開業した饅頭屋・金五郎の子孫にあたると伝わっている。あくまで伝承であり、史料によって系譜のすべてが裏づけられているわけではないが、境松で始まった商いの記憶が、中泉の菓子屋という形で今日まで語り継がれてきたことは、この町の歴史を考えるうえで興味深い。

絵図に描かれた境松の家並みの変遷

境松がどのように広がっていったかは、江戸時代を通じて作られた3種の東海道絵図から読み取ることができる。元禄3年(1690年)の絵図、文化3年(1806年)の絵図、そして天保13年(1842年)の絵図である。それぞれの絵図に描かれた家数や特徴を比べると、境松という町が時代とともに姿を変えていった様子が浮かび上がる。

絵図作成年家数・特徴
東海道絵図 元禄3年(1690年) 境松の家並みが東海道沿いに描かれ、立場としての町の姿が確認できる初期の記録。
東海道絵図 文化3年(1806年) 元禄期の絵図と比べて家数が増え、門前の町としての広がりが読み取れる。
東海道絵図 天保13年(1842年) 家並みがさらに整い、農鍛冶の家など職人の存在も絵図の中に描き込まれている。

3種の絵図を並べて見ると、境松が元禄期の小さな立場から、江戸後期にかけて次第に家数を増やし、職人や商人を含む複合的な門前町へと育っていったことがわかる。1枚の絵図だけでは見えてこない変化が、複数の絵図を重ねることで初めて像を結ぶ。

この絵図の記録を、地面の下から裏づける発見もあった。平成25年度(2013年度)の発掘調査では、鍛冶施設の遺構が見つかっている。この遺構の位置が、絵図に描かれた農鍛冶の家の跡と一致することが確認された。絵図という紙の上の記録と、発掘という土の中の記録とが、境松という同じ場所を指し示していたことになる。

境松に残る地蔵尊の銘

境松には、地蔵尊立像が伝えられている。その背中には「明和9年 境松村」(1772年)という銘が刻まれている。境松が「村」として、そして地蔵尊を建てて祀るだけの信仰の営みを持つ集落として存在していたことを伝える、静かな物証である。

また、山中豊平による「中泉村絵図」にも、境松の景観が描かれている。中泉側から見た境松の姿を伝える資料として、東海道絵図とはまた別の角度から、この町の輪郭を補ってくれる。

台地の井戸と、ある卒業生の回想

境松を含む見付・中泉の台地上の暮らしを支えてきたのは、井戸の水だった。低地とは異なり、台地の上では水の確保が容易ではなく、井戸は人々の暮らしに直結する存在だった。

見付中学校(現在の磐田南高等学校)には、かつて大きな井戸があったという。明治44年(1911年)生まれの卒業生が、この大井戸について回想を残していると伝えられている。学舎の記憶とともに、境松に隣接するこの台地一帯の生活用水の姿を伝える証言であり、当時を知る人の口から語られた伝聞として受け止めておきたい。

見付は、境松からほど近い宿場町として、また信仰の面でも磐田を代表する場所である。見付天神の祭礼については、当サイトの特集「見付天神裸祭」(matsuri-hadaka.html)で扱っているので、あわせて参照してほしい。境松は、この見付と中泉という2つの町の生活圏の境目に位置しながら、独自の門前町としての歴史を刻んできた場所である。

参考資料

  • 『一目玉鉾』元禄2年(1689年)刊
  • 十返舎一九『東海道中膝栗毛』
  • 東海道絵図3種(元禄3年〈1690年〉・文化3年〈1806年〉・天保13年〈1842年〉作成)
  • 平成25年度(2013年度)発掘調査概報
  • 山中豊平「中泉村絵図」
  • 小杉達『国分寺ものがたり』国分寺奉賛会、令和4年(2022年)発行、38~40頁

本文は上記資料をもとに再構成したものであり、菓子勇本店の系譜など一部の伝承については、史料による裏づけと口伝を区別して記載している。

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