『図説 磐田市史』は、永禄11年(1568年)から元亀3年(1572年)までを、家康の遠江攻略と武田信玄の侵攻が交差する時期として整理する。見付は戦場そのものだけでなく、天竜川を越えて東西へ軍が動く経路上にあった。
本稿の要点
- 家康は永禄11年に遠江へ侵攻した。
- 井伊谷から浜名湖北岸を通り、引間城攻略へ進んだ。
- 元亀3年、武田軍は木原・西島方面から見付を経て西進した。
- 本多忠勝の蜻蛉切や伝酒井の太鼓には伝承を含む。
家康の遠江侵攻
永禄11年12月、家康は井伊谷から遠江へ入り、気賀の堀川一揆などの抵抗を受けながら引間城を攻めた。引間城を得た後、浜松城として本拠を整える。見付は浜松へ至る東海道上の町として、兵・物資・情報が通過する位置にあった。
武田信玄の西進
元亀3年11月、武田信玄は木原・西島方面から見付を通って西へ進んだと資料は示す。家康軍は浜松城へ退き、三方原で戦った。図示された進路は『浜松御在城記』などをもとにした概略で、各部隊の厳密な通過地点には検討の余地がある。
本多忠勝と一言坂
一言坂合戦で殿軍を務め、家康軍の退却を助けたとされる本多忠勝は、武田方からも称賛されたとの伝承を残す。「家康に過ぎたるもの」とうたわれた逸話は忠勝の武勇を象徴するが、後世の軍記的表現としても読む必要がある。
伝承品が伝える記憶
浜松城には三方原から退いた家康軍が城内に多くの軍勢がいるように見せるため太鼓を高く打ち鳴らしたとの伝承がある。「伝酒井の太鼓」は見付学校時代にも時報用として使われたとされる。合戦の一次史料ではなく、戦いが地域で記憶された過程を伝える資料である。
| 年 | 出来事 | 見付との関係 |
|---|---|---|
| 1568 | 家康が遠江侵攻 | 東海道・天竜川渡河の要地 |
| 1570 | 浜松を本拠化 | 見付の西に政治軍事拠点 |
| 1572 | 武田軍西進・三方原合戦 | 木原・西島から見付を経由 |
更新履歴:2026年7月12日 新規公開。