遠江今川氏と見付端城 ──
もう一つの今川家が治めた見付
二つの今川氏 ── 駿河本家と遠江の分家
今川氏は、室町幕府を開いた足利氏と同じ清和源氏の一門で、南北朝時代以降、駿河国の守護を代々務めた名門である。将軍家に「御所(ごしょ)が絶えれば吉良(きら)が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われたほどの家格を誇った。この駿河今川氏(本家)と並んで、遠江国を基盤とした分家が存在した。その祖が、今川了俊(りょうしゅん)こと今川貞世(さだよ、1326〜1420?)である。
了俊は、南北朝の動乱期に九州探題(きゅうしゅうたんだい)として現地に赴き、劣勢だった北朝方を立て直して南朝方をほぼ制圧した、当代屈指の名将だった。同時に、和歌・連歌をよくし、今川家の由緒と自らの功績を記した『難太平記(なんたいへいき)』を著した一流の文人でもあった。文武を兼ねたこの了俊の系統が、遠江に基盤を持ち、遠江守護の地位にもついたことから「遠江今川氏」と呼ばれ、やがて本拠とした堀越(ほりこし)の地名を取って「堀越氏(ほりこしし)」を名のる系統を生んだ。駿河の本家が戦国大名・今川義元の代に最盛期を迎える大大名へと成長していくのに対し、遠江の分家は、見付をはじめとする遠江の土地に密着した在地領主として、地味だが着実な道を歩んでいく。同じ今川の血が、大名の道と国衆の道に分かれたのである。
見付端城を築いた男 ── 堀越貞延
遠江今川氏と見付の関係を決定づけたのが、室町中期の当主・今川貞延(さだのぶ、堀越貞延)である。系譜の上では了俊の曾孫にあたるとされる。貞延は、文明年間(1469〜1487年)に見付に城 ── のちに「見付端城(みつけはじょう)」と呼ばれる城 ── を築いて、見付を支配下に置いたと伝えられる。「端城」の名は、宿場町の端に構えられたことに由来するとも言われるが、確かなことは分からない。
ここで重要なのは、貞延が「見付を押さえた」ことの意味である。当時の見付は守護所の置かれた遠江支配の要であり、東海道の宿として、また国府以来の古い町として栄える中世都市だった。その見付に城を築いて支配するということは、遠江の政治的な中心を掌握するということにほかならない。遠江守護の系譜を引く遠江今川氏にとって、見付の掌握は、一族の権威を目に見えるかたちで示す行為でもあっただろう。しかし、応仁の乱以後の遠江は、斯波氏(しばし)・今川氏・在地国衆が入り乱れて争う戦乱の地でもあった。貞延自身、文明6年(1474年)ごろに戦いのなかで命を落としたとされ、その跡は子どもたちに引き継がれていく。
遠江今川氏が今川了俊を祖とし、堀越氏を分出したこと、堀越(遠江国山名郡、現在の袋井市域)を本拠としたことは系譜史料で確認できる。見付端城の築城時期・貞延の没年には史料により異同があり、本文の年代は「〜とされる」「〜と伝えられる」の水準にとどまる。城の正確な位置についても、見付の市街の一角と推定されるものの、遺構が明確に残っておらず確定していない。遠江今川氏・堀越氏の事績は文献史料が乏しく、系譜の細部や年代には研究者によって解釈の幅がある。本稿は代表的な理解に沿って記し、確実な物証である大永2年の鰐口を軸に据えている。
瀬名と堀越 ── 分かれていく家
貞延の死後、その子らは別々の名字を立てたと系譜は伝える。長男の系統は駿河の瀬名(せな、現在の静岡市葵区瀬名)の地を与えられて瀬名氏を名のり、次男の系統は遠江山名郡の堀越の地により堀越氏を名のった。一つの家が、駿河と遠江の二つの土地に根を張ることになったのである。
この分岐は、のちの歴史に思わぬかたちで顔を出す。瀬名氏はやがて駿河今川氏の重臣となり、その一族から、徳川家康の最初の正室・築山殿(つきやまどの、瀬名)が出る。築山殿は家康の嫡男・信康(のぶやす)の母であり、悲劇的な最期を遂げたことで知られる女性である。つまり、見付端城を築いた堀越貞延の血は、めぐりめぐって徳川将軍家の外戚(がいせき)にまでつながっていたことになる。一方、堀越の家は遠江にとどまり、見付端城とのかかわりを保ち続けた。見付の一角に城を構えた地方の一族の血が、駿河の名家へ、そして天下人・家康の家庭へと、細くしかし確かに枝を伸ばしていた ── これは、地方史がしばしば見せてくれる、思いがけない「つながり」の一例である。
大永2年の鰐口 ── 堀越氏延の名
系図や伝承だけでは頼りない在地領主の歴史に、確かな裏づけを与えてくれる物証がある。別稿で扱った鰐口(わにぐち、社殿の軒に吊るして参拝の合図に鳴らす金属製の音具)である。大永2年(1522年)の銘を持つこの鰐口には、寄進者として「見付端城主」堀越氏延(うじのぶ)の名が刻まれている。
この一口の鰐口が持つ意味は大きい。系図の上の名前にとどまりがちな在地領主が、年紀(製作年)と「見付端城主」という肩書きつきで、金属という朽ちにくい素材に自らの名を残している ── これは中世の遠江の武家史料としては貴重な例である。この鰐口は、少なくとも次の三つを証明する。第一に、16世紀前期(大永2年=1522年)の時点で見付端城が現に機能していたこと。第二に、堀越氏がその城主を名のる存在だったこと。第三に、堀越氏が寺社に鰐口を寄進するだけの財力と信仰心を持つ、地域の有力者だったことである。文字史料の乏しい遠江今川氏の歴史のなかで、この鰐口は、暗がりを照らす一つの確かな灯りである。
桶狭間のあとで ── 没落と徳川への帰参
戦国期の堀越氏は、勢力を伸ばす駿河今川氏の勢力下に組み込まれ、遠江の国衆(くにしゅう、在地領主)の一角を占めた。かつては遠江守護の家格を持った一族が、いまや駿河本家に従う一国衆となっていたのである。しかし永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川領国は根底から動揺する。遠江の国衆たちは遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれる連鎖的な動乱のなかで、今川に従い続けるか、離反して徳川や武田につくかの選択を迫られ、それぞれの家の存亡を賭けて引き裂かれていった。
戦国期の見付自治で見たように、領主層が混乱するなか、見付の町そのものは町人たちの自治的な運営でこの動乱期を生き抜いた。そして堀越氏の一族は、やがて遠江を平定した徳川氏に仕える道を選び、江戸時代には旗本として家名を後世に残したと伝えられる。九州探題・今川了俊に始まり、遠江守護をつとめ、見付端城に拠り、そして戦国の荒波をくぐって徳川の旗本へと続くこの一族の歩みは、南北朝から江戸まで二百数十年、まさに中世遠江の武家社会の栄枯盛衰を一身に体現した縮図である。守護大名から国衆へ、国衆から近世大名の家臣へ ── 時代の変化に合わせて身の丈を変えながら、家名だけは絶やさずに生き延びた。それは決して華やかではないが、地方の武家がたどった最も現実的な生存の道だった。見付端城そのものは、徳川の遠江平定と城之崎城の築城計画の時代までに軍事的な役割を失い、城の名だけが、大永2年の鰐口の銘文のなかに静かに眠ることになった。
遠江今川氏・堀越氏の歩み
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 南北朝期 | 今川了俊(貞世)、九州探題として活躍。遠江今川氏の祖となる |
| 文明年間(1469〜87) | 今川(堀越)貞延、見付端城を築き見付を支配したと伝わる |
| 文明6年(1474)ごろ | 貞延、戦死とされる。子らは瀬名氏・堀越氏に分かれる |
| 大永2年(1522) | 「見付端城主」堀越氏延、鰐口を寄進(現存する物証) |
| 永禄3年(1560)以降 | 桶狭間後の今川領国の動揺のなかで没落。のち徳川に仕え旗本として存続と伝わる |
見付から見た「今川」の物語
駿河の今川義元が「海道一の弓取り」として教科書に大きく描かれる陰で、遠江の今川一族は、見付の町とともに生き、記録の少ない在地の歴史のなかへ静かに溶けていった。彼らの事績を伝える文献はごくわずかで、系譜さえ史料によって食い違う。しかし、守護所の町・見付に暮らした人々にとっては、遠い駿府の大守護よりも、この端城に拠った分家のほうが、よほど身近で日常的な「今川殿」だったはずである。年貢を納め、争いごとを持ち込み、寺社の祭りで顔を合わせる相手は、義元ではなく、堀越氏だった。
歴史は、勝者と大名の物語として書かれがちである。だが、その足もとには、名を残さなかった無数の地方領主の暮らしがあった。見付天神に伝わる大永2年の鰐口 ── そこに刻まれた「見付端城主 堀越氏延」という一行の銘文から、教科書には決して載らない、もう一つの今川の物語が立ち上がってくる。地方の小さな城主の名が、五百年の時をこえて金属の上に残っていたこと。それ自体が、地域史のかけがえのない価値を、静かに物語っている。駿河の今川と遠江の今川 ── 同じ姓を名のった二つの家の明暗は、戦国という時代が地方の武家に強いた選択の重さを、いまに伝えている。
主な参考資料
- 大永2年銘鰐口(堀越氏延寄進。n038参照)
- Wikipedia「堀越氏」「今川貞延」「今川貞世」
- 今川了俊『難太平記』(遠江今川氏の家伝)
- 磐田物語「見付守護所」「戦国期の見付自治」「堀越氏延の鰐口」「見付に残る幻の城」
遠江今川氏の系譜には史料間の異同があり、築城年代・没年などは「〜とされる」の水準で記している。
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