『図説 磐田市史』は、鎌倉幕府が成立した後、甲斐源氏の安田義定が見付へ入り、守護所を開いたと整理する。その場所は確定していないが、大見寺から旧田北小学校付近にかけて築かれたと考えられてきた。
本稿の要点
- 守護所は遠江支配の政治・軍事拠点であった。
- 南北朝期には今川氏と斯波氏らの攻防が続いた。
- 建武元年(1334年)の今川範国免状は守護所の権限を示す。
- 蓮光寺の鐘は今川氏による奉納伝承をもつが、移動経路には異説がある。
守護所の位置
資料の見付古絵図では、淡海国玉神社、見付天神、府八幡宮、新田寺などとともに守護所の想定地が示される。しかし発掘による確定地点ではない。現在の地名や寺院配置から候補域を読むことはできても、建物の輪郭まで断定すべきではない。
鎌倉から南北朝へ
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇と足利尊氏の対立により南北朝が成立した。遠江でも争いが続き、建武2年(1335年)には見付で合戦があったと『図説 磐田市史』は記す。その後、足利方の今川範国が遠江を治め、見付を拠点とした。範国の後は今川氏・斯波氏・狩野氏・堀越氏らが見付をめぐって争った。
免状が示す守護の権限
建武元年(1334年)、今川範国が府八幡宮へ出した免状には、税を納めなくてよいことを守護所が認めた趣旨が記される。寺社領への課税免除を承認する権限は、守護所が軍事だけでなく地域秩序の調整を担ったことを示す。
鐘をめぐる伝承
沼津市霊山寺の鐘は、もと見付の蓮光寺にあり、貞治3年(1364年)に今川貞世が鋳造させたとの銘をもつという。後に掛川・森町を経て霊山寺へ移ったとする説明があるが、経路は伝承を含む。鐘の奉納が今川氏の威信を示した可能性は高いものの、移動の全過程は断定しない。
| 時期 | 見付をめぐる動き |
|---|---|
| 鎌倉期 | 安田義定が入り守護所を開いたとされる |
| 1334 | 今川範国が府八幡宮へ免状 |
| 1335 | 見付で合戦 |
| 室町〜戦国 | 今川・斯波・狩野・堀越各氏の攻防 |
更新履歴:2026年7月12日 新規公開。