失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 磐田原の水不足と開発史
水・開発 | 向陽・豊岡

磐田原の水不足と開発史 ──
水に恵まれなかった台地の記憶

磐田原台地は、古墳が並ぶ権威の場所であると同時に、長らく水に恵まれない土地でもあった。なぜこの台地は水不足に悩まされ、人々はどう向き合ってきたのか。寺谷用水、磐田用水、そして茶園開拓――複数の対応策を俯瞰しながら、台地の水との関わりをたどりたい。

なぜ磐田原は水に恵まれなかったのか

磐田原台地は、天竜川のすぐそばにありながら、地下水位が深く、水はけの良い土地だった。水はけが良いということは、裏を返せば水を保ちにくいということでもある。川が近くにあっても、その水を農地へ安定して届けるには、取水口・水路・分水の仕組みが必要であり、台地の地形はそれを難しくしていた。江戸時代には中規模の用水事業がいくつか試みられたが、耕地の分散や河川水量の制約もあって、大規模な用水網はなかなか実現しなかったとされる。

水争いの記憶(要裏取り)
限られた水をめぐって、水争いはほぼ毎年のように起きていたと伝わる。浅羽地区では夜間に竹槍を持った農民数百人が衝突した記録があるとされ、明治期にも上流の村が襲撃され警察が介入する事態があったという。これらは検索エンジン経由で見つかった地域史サイトの記述にとどまり、磐田市史等の一次資料での確認ができていない。史実として断定はせず、今後の裏取りを要する記憶として紹介する。

複数の対応策 ── 寺谷用水・磐田用水・茶園開拓

この水不足に対し、磐田原の人々は一つではなく、複数の方法で向き合ってきた。向陽の寺谷用水は、天竜川の激流に挑んで開削された、遠州最古とされる用水路である。詳しくは寺谷用水の開削で扱っている。

より広域の解決策が、磐田用水である。天保2年(1831年)ごろの社山疏水構想にはじまり、昭和4年(1929年)の幹線改良事業採択、昭和19年(1944年)の通水、昭和25年(1950年)の東部土地改良区認可を経て、現在の磐田用水へとつながっていく。この長い制度と工事の歴史は磐田用水の歩みのシリーズで詳しくたどっている。

また、水利事業だけが答えではなかった。明治期、日本造船の父と呼ばれた海軍軍人・赤松則良は、予備役となったのち見付に居を構え、磐田原台地に茶園を開拓したと伝わる。水田耕作が難しい台地の性格を逆手にとり、畑作・茶栽培という道を選んだ例である。詳しくは旧赤松家と、海をわたった見付の人で扱っている。

地形的な原因地下水位が深く水はけが良い台地。江戸期の中規模用水では大規模化に限界。
水争い(要裏取り)浅羽地区での夜間の衝突、明治期の警察介入と伝わる。一次資料未確認。
寺谷用水(向陽)天竜川の激流に挑んだ遠州最古級の用水路。
磐田用水(1831年構想〜)社山疏水から幹線改良、東部土地改良区へ。広域の農業用水網。
茶園開拓(明治期)赤松則良による、水田に頼らない台地利用の試み。

水不足の記憶を今に伝えるもの

いまの磐田原には、豊かな茶畑や整備された農地がひろがり、かつての水不足を思わせる風景は少ない。しかし、寺谷用水の水路、磐田用水の幹線、そして赤松則良が拓いた茶園は、いずれも「水に恵まれない台地でどう生きるか」という、同じ問いへの異なる答えである。一つの解決策だけでなく、複数の方法が積み重なって、いまの磐田原の農地がある。その積み重ねの記憶を、これからも書き残していきたい。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。