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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(35)

見付宿助郷68ヶ村 ── 宿の外側に広がった人馬供給圏

助郷を固定した村名簿ではなく、交通需要に合わせて組み替えられた地域制度として読む。

見付宿の人馬が足りないとき、周辺の村々が人足と馬を出した。田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』第六章は、天保12年(1841年)までの助郷村を68ヶ村とし、その後84ヶ村、123ヶ村へ広がった過程を表で示す。助郷は宿の「応援」ではない。村高を基準に公用交通の不足を配分する、宿駅と農村を結ぶ制度であった。

本稿の要点
  • 同書は見付宿の第一期助郷を68ヶ村と整理し、天保13年以後は16ヶ村を加え84ヶ村とする。
  • 文久2年(1862年)以後の第三期にはさらに39ヶ村が加わり、計123ヶ村に達した。
  • 村数の増加を、そのまま負担総量の増加とは読めない。各村の勤高と出役実績を分ける必要がある。
  • 同書所引の助郷帳・宿附助郷帳の原本は未照合であり、村名細目には判読保留を残す。

助郷は宿駅の後背地である。 同書202〜203頁は、宿駅が本来負担すべき伝馬役を常備人馬だけで果たせなくなったとき、その不足を郷村へ課したことを助郷の出発点として説明する。宿人馬と助郷人馬は同じではない。前者は宿内の伝馬役が用意し、後者は指定された村が不足時に差し出す。制度上は補助であっても、通行が増えれば村の出役は繰り返され、宿場の日常を支える供給圏となった。

助郷の起源について同書は、寛永元年(1624年)に中山道太田川の助郷へ高3,300石余の郷村を附属させた例を挙げる。しかし、これは制度一般の先例であり、見付宿68ヶ村が同年に成立したことを示す記録ではない。見付の指定時期は、同書が引用する各年代の帳簿から段階的に復元されている。

区分 時期 村数 読み方
第一期 天保12年(1841年)まで 68ヶ村 同書が助郷村表の基礎とする範囲
第二期 天保13年(1842年)以後 84ヶ村 16ヶ村を追加。宿附助郷の組替えを伴う
第三期 文久2年(1862年)以後 123ヶ村 さらに39ヶ村を追加。幕末の大通行期に重なる

この三期区分は『東海道遠州見付宿』218〜219頁による。重要なのは、68、84、123という数が同時点の並列値ではないことである。帳簿の年代と制度区分を外して数字だけを比べれば、助郷が一度に123ヶ村存在したような誤読を招く。

追加の理由をすべて交通量だけに帰すこともできない。助郷の廃止、代勤、宿附助郷の変更、病馬や出水、隣宿との分担、領主支配の都合が重なるからである。村数は制度の広がりを示すが、その年に実際に出た人馬数とは一致しない。実働を知るには、先触、村別割付、欠勤・代替、継立実績を同じ通行について接続しなければならない。

村名表が示す広がり

同書206〜217頁の表には、見付近傍だけでなく、現在の磐田市域を越える村名が並ぶ。表は村名、領主、村高、伝馬勤高を組み合わせ、助郷が地理的な近さだけでなく石高と支配関係をまたいで編成されたことを示す。村名の読みや近代以後の行政区画への比定には検討を要するため、本稿では全123ヶ村を現代地名へ機械的に置き換えない。

同書237頁の「見付宿助郷分布図」は、東海道沿いから北の山間、南の平野へ助郷圏が伸びる様子を示す。ただし概略図であり、境界や距離を測る地図ではない。現地へ重ねるには、村名表、明治初年の村絵図、旧村境、領主別の郷帳を照合する必要がある。分布図は方向と相対関係を読む資料として用いる。

石高と勤高を分ける。 助郷表には村高と勤高が並ぶ。村高は年貢賦課の基礎となる公的な石高であり、勤高は助郷役を割り付けるために用いられた基準である。両者は同じ数値とは限らない。免除、分割支配、他宿との兼勤、追加指定があれば、村高の全部が見付宿の助郷勤高になるとは限らないからである。詳しくは助郷高と領主支配で扱う。

したがって「村高が大きい村ほど毎回多く出役した」とは直ちに言えない。割付は基準であり、実際の出役には人馬の不足、代勤、金納、買人馬が介在する。助郷村数、勤高、実働人馬を三層に分けることが、表を読む最低条件になる。

既存記事との位置づけ。 見付宿の助郷制度と周辺村の負担は制度全体を概観し、本稿はそのうち指定村の範囲と変遷を切り出す。大通行の人馬数を比べるは動員表の読み方を示したが、当時未確認だった村数を今回の第六章で補う。大通行が見付宿に来た日が描く宿内の総動員に対し、本稿は宿外へ伸びた供給圏を見る。

本稿の立場は、助郷を「宿を助けた周辺村」という善意の物語にせず、幕府交通行政が村高を基準に役を配分した制度として捉えることである。同時に、村数の増加だけから疲弊を断定しない。負担の重さは賃銭、待機、農繁期、代替雇用まで含めて検証する必要があり、それは助郷人馬の賃銭と代勤の課題である。

近い村だけが助郷ではない。 助郷村を地図へ置くと、見付に近い村から機械的に選ばれたわけではないことが見えてくる。既存の助郷指定、各宿の不足、領主支配、街道や渡河点への接続が重なって供給圏が形づくられたと考えるべきである。ただし、直線距離だけで遠近を判定してはならない。歴史的な道筋、天竜川などの渡河、所要時間、馬の飼料と休息を含む移動費を復元する必要がある。

三期を連続した変化として読む。 六十八、八十四、百二十三という三つの数は、同心円状に村が追加されたという意味ではない。各期の村名を照合し、残った村、外れた村、新たに加わった村を分けて初めて制度変更の方向が分かる。追加村がどの方角に偏るか、同じ領主の村がまとまるか、臨時指定が恒常化したかを確かめる作業が次の段階となる。

史料の限界と次の照合。 同書は宿方文書と各種書上帳を用いて三期を再構成した二次文献である。今回のPDFでは202〜237頁を画像で確認したが、同書所引の原帳簿の表題、丁付、後筆、訂正痕を直接確認していない。表中の細字には判読の難しい箇所もあるため、全村の数値再集計は行わなかった。

次の段階では、68ヶ村表を行単位で転記し、原史料または自治体史の翻刻と照合する。村ごとに村高・勤高・領主・期間・代勤先を持たせれば、追加された村と外れた村を地図上で追える。現段階で確定できるのは、三期の村数と、助郷圏が固定せず組み替えられたという構造である。

  • 『東海道遠州見付宿』202〜219頁を全頁画像照合し、新規公開。

参考資料

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