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磐田物語福田地区 / 福田村五人組帳

福田・江戸時代の村掟 | 天和4年〜宝永5年

福田村五人組帳 ── 江戸時代の村掟34ヶ条と、300年前の家々の記憶

天和4年(1684年)、宝永3年(1706年)、宝永5年(1708年)。福田村には、村人が互いを監視し助け合うための「五人組」を定めた帳面が、少なくとも三冊伝わっていた。火事の消火から田畑永代売買の禁止、人身売買の禁止、キリシタン禁制まで、村の暮らしを縛った34ヶ条の村掟と、そこに記された家々の名前を、福田町の郷土史家・寺田勝彦が編んだ資料集からたどる。

昭和62年(1987年)、福田町の寺田勝彦が編集・発行した「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」がある。福田村に伝わった古文書のうち、天和4年(1684年)・宝永3年(1706年)・宝永5年(1708年)の三冊の五人組帳を中心に、五人組制度の歴史的な解説とあわせて紹介する冊子である。序文で編者は「農民達の生活のほんの一部ですが、伺い知ることが出来るかも知れませんので、今回は『福田村五人組帳』を紹介させていただきます」と記している。ここでは、この資料が伝える江戸時代の福田村の村掟と、そこに刻まれた家々の記憶を整理する。

本稿の要点

公式情報の整理

資料名
「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」
編集・発行
寺田勝彦(福田町)、印刷 亀泉崖堂印刷社
発行日
昭和62年(1987年)12月20日印刷・同月25日発行
収録される五人組帳
天和4年(1684年)・宝永3年(1706年)・宝永5年(1708年)の福田村五人組帳
天和4年当時の家数・人数
家数154軒、人数1,071人(内訳は本文参照)

五人組とは何か

五人組とは、江戸時代に村ごとに5軒前後を単位として編成された行政上の最少単位である。幕府は五人組制度を通じて、村ごとに年貢の納入や治安の維持といった行政上の義務を負わせた。五人組の中の一軒が年貢を納められなければ、他の四軒がそれを補う義務があり、罪を犯した者が五人組の所属者であれば、訴え出なければ別の組の者ももらい罪となった。五人組をいくつかまとめた「五保」という単位もあり、江戸時代の法令「五人組帳前書」の中に、里ごとに長を定めて各家の監督や賦役の管理などについての権利をあたえ、その中から「保長」を一人出させるという規定が参考として記されている。

五人組の起源は秀吉の時代の刀狩りにさかのぼるとされる。慶長2年(1597年)、秀吉は「庄屋五人組帳」という文書を使って、はじめて五人組組織を村内に広めたかにみえる制度をつくったと考えられている。徳川幕府はこれを継承・強化し、寛永十四年(1637年)の郷帳や寛永初年(1624年ごろ)の触書の中で、五人組制度を農村に導入したものと考えられている。特に寛永5年(1628年)から二十年にかけて整備され、寛永二十年の御条目には「五人組帳」を作らせることがはっきりと記されている。

天和4年(1684年)福田村五人組帳の村掟34ヶ条

天和4年の福田村五人組帳には、農業や日常生活にかかわる細かな禁止事項・義務が34ヶ条にわたって記されている。次のような内容である。

天和4年(1684年)福田村五人組帳・村掟の主な内容(抜粋)
項目内容
火事の消火火事があれば村中総出で消火にあたること。火消道具を各戸で備え、まといや提灯を持って集まること。
竹木の無断伐採禁止領主・領林の竹木を無断で伐ってはならない。村の自分の林であっても、伐採には代官の許可(伐可申候事)が必要。
田畑の永代売買禁止寛永二十年(1643年)の永代売買禁止令を受けたもの。田畑を質に入れる「質物」の形で実質的な売買も後年禁止された。
人身売買の禁止正徳元年(1711年)以降、10年以内の年季奉公を人身売買とみなし禁止。それ以前は一生奉公(終身奉公)も行われていた。
助郷(人馬役)見付宿への助郷役。福田村の村高580石余のうち、馬勤高は約300石で、遠方の村との合議で毎年勤めを分担した。
婚礼・葬祭の簡素化幕府は寛永十九年(1642年)以降、農村の消費経済を安定させるため、婚礼・仏事を簡素・質素に行うよう繰り返し布告した。
身分不相応な家作りの禁止農民は分限に応じた家を作ること。慶安二年(1649年)の御触書「慶安の御触書」に類する内容とされる。
農民の夫食(食料)について米雑穀以外は将来のことを考えて食べず、大切にすること。食べ物を粗末にして他人に迷惑をかけないこと。
病身・独り身の百姓への対応病気で耕作できない百姓には五人組や村中が助け合い、田植え・年貢納入を手伝うこと。
洪水への備え堤防や道路・橋の破損箇所は村総出で早期に修繕すること。田畑への水害拡大を防ぐ苗の緊急移植なども定める。
年貢の割り付けと納期年貢は村中の百姓へ公平に割り付け、期限内に納めること。期限を過ぎた不足分は村全体の責任とする。
不審者・逃散者への対応不審な者を村に泊めてはならない。逃散した百姓の田畑は、五人組・庄屋・組頭が管理し、勝手に処分してはならない。
隠田・寺の無断新築の禁止検地帳に載らない隠し田をつくってはならない。寺社もお堂や庵を無断で新築してはならない。
訴訟・賄賂の禁止村内の争いはまず庄屋・組頭・五人組で解決を図ること。役人衆・下役の者に金銭や贈り物をしてはならない。

これらの条文の随所に、幕府の禁令(慶安の御触書、寛永の永代売買禁止令など)がそのまま村の掟として反映されている様子がうかがえる。一方で、洪水対策や病身の百姓への助け合いなど、福田村という土地固有の事情に応じた条文も含まれており、幕府法と村の自治が重なり合いながら運用されていたことがわかる。

キリシタン禁制と檀家の記録

天和4年の五人組帳には、当時の福田村の家数・人数と、村人が所属した寺の檀家数の記録が残されている。総家数154軒(「二罷出候」)、人数合計1,071人(内訳:男570人・女406人・出家18人・七人)。所属する寺は禅曹洞宗の松秀寺(707人)、浄土宗の撰要寺(150人)、門徒宗の万徳寺(806人)、門徒宗の西願寺(106人)など複数にのぼり、遠州各地の寺の檀家となっている家もあった。

キリスト教は天文18年(1549年)、ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされて以来、各地の村中で毎年寺請制度による宗門改めが行われるようになった。福田村でも「キリシタン教徒禁止」の趣旨を村中に告げる旨の記述があり、キリシタン改帳への差上げの様子が記されている。慶長17年(1612年)、徳川家康は禁教令を発し、五人組帳にもキリシタン取り締まりのための条項が加えられるようになった。福田村住民の大半は宝永年より少し前の頃の観音寺の檀家などを通じてキリシタンに関する問題は「見当りません」としつつ、当時の宗門改めの厳格さを伝える記録として残されている。

宝永の五人組帳と、家々の名前

宝永3年(1706年)の福田村五人組帳では、六軒組合4組・五軒組合24組・四軒組合1組の合計29組、家数158軒が記録されている。宝永5年(1708年)の五人組帳には、各組の五人組頭と組員の実名が記されており、たとえば「五人組頭 太郎兵衛」「五人組 清左衛門・太郎馬・善四郎・弥五郎」といった形で、家ごとの構成員が書き上げられている。編者はこれらの旧名と、現在の福田の家名(寺田・大庭・鵜野・落合・杉浦・百鬼・山中など)との対照を試み、300年前の福田村の家々が、今日の家々とどうつながっているかを地道にたどっている。

あわせて資料には、慶長9年(1604年)の検地帳集計も収録されている。福田町の慶長9年検地帳には、七町六反七歩の総面積が記録されており、本田分四冊、新田分が一冊の計五冊のうち、「巻の四」にあたる一冊が江戸時代のある時期に紛失し、複製によって補われているという。検地帳に記された「太郎馬」「太郎右衛門」「四郎右衛門」「五郎兵衛」といった当時の名請人名と、現在の寺田家・渡辺家・落合家などとの対照が試みられ、福田村の中心部に「福田の二十五苗」と呼ばれる旧家28軒(検地帳には25苗と記録)が、ほぼ東から西へと軒を連ねていた様子が推定復元されている。

さらに、慶長9年(1604年)から慶応4年(1868年)にいたる福田村村役人表(庄屋・組頭・百姓代の一覧)も収録されている。庄屋・組頭・百姓代は「村の三役」と呼ばれ、庄屋は代官所の許可が必要な役、組頭・百姓代は村人の互選による役であったとされる。慶長9年の庄屋は四郎馬、幕末の慶応4年(1868年)の庄屋は彦八郎であった。

火事の消火に総出で駆けつけ、病気の隣人の田植えを助け合い、年貢が足りなければ組の四軒で補う。福田村五人組帳が伝えるのは、幕府の統制の記録であると同時に、300年前の村人たちが互いに支え合って暮らした、その具体的な形でもある。

参考資料

本資料に記された古文書原文の読み下しには、編者自身による「専門的に勉強した方には無謀すぎる試み」との断り書きがあります。本稿は編者の整理にもとづき、村掟の要旨と背景を紹介するものです。

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