五人組帳には、村掟の条文だけでなく、実際にその組を構成した人々の名も書き上げられている。天和4年(1684年)と宝永5年(1708年)、二つの時代の福田村五人組帳から、五人組頭たちの実名を拾い、今日の福田町の家々との対照を試みる。あわせて、海辺の村ならではの珍しい掟と、明治維新後の五人組制度の行方をたどる。
- 天和4年(1684年)・宝永5年(1708年)の福田村五人組帳には、多くの五人組頭・組員の実名が記されている。
- 編者はこれらの名前と、今日の福田町の寺田・大庭・鈴木・杉浦・加藤・白井・落合などの家々との対照を試みている。
- 五人組帳には「破船の積荷を盗んではならない」という、海辺の村ならではの掟も記されている。
- 明治維新後も五人組制度はしばらく存続したが、明治2年(1869年)の東京府をはじめ各地で「組合規則」への移行が進み、次第に姿を変えていった。
公式情報の整理
- 資料名
- 「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」
- 編集・発行
- 寺田勝彦(福田町)、印刷 亀泉崖堂印刷社
- 発行日
- 昭和62年(1987年)12月20日印刷・同月25日発行
- 収録される五人組頭の記録
- 天和4年(1684年)・宝永5年(1708年)子ノ二月の福田村五人組帳
天和4年、五人組頭たちの名前
天和4年の福田村五人組帳には、村を構成する多くの五人組について、五人組頭の名が書き上げられている。編者はこれらの名と、今日の福田町の家々との対照を試み、長三郎兵衛(山中藤左エ門)、覚左衛門、七兵衛(鈴木正司・杉浦正司)、只左衛門(鈴木三夫)、三太夫、久兵衛(鈴木久一)、新三郎(鈴木伸司)、弥兵衛など、数多くの五人組頭の名を書き残している。組頭のもとには、それぞれ複数の組員の名も連なっており、村がいくつもの五人組によって編み上げられていた様子がうかがえる。
あわせて宝永5年(1708年)子ノ二月の記録によれば、「福田の海岸や他村の海岸で、大名の年貢米を積んだ船はもちろんのこと、商船が難破した場合でも、その積荷を相手にむづかしい事態になっても、その者の所属する五人組で解決する様にせよ」という趣旨の掟が記されている。福田村が海に面した村であったことを物語る、他の内陸の村にはあまり見られない性格の条文である。
破船の積荷をめぐる掟
海辺の村ならではの掟として、「破船の積荷を盗んではならない」という一条がある。福田の海岸や他村の海岸で、大名の年貢米を積んだ船であれ商船であれ、難破すればその積荷をめぐって厄介な事態になることもあり、そうした場合は当事者の所属する五人組で解決にあたるよう定められていた。難破船の積荷を盗むことは重罪とされていたが、海岸に流れ着いた木切れを燃料用に拾い集めることは、盗みとは別の感覚で行われていたようだと編者は記している。あわせて、庄屋を務めた家が、難破船の積荷をめぐって責めを負わされたという伝えも資料には残されており、海に面した福田村ならではの緊張関係がうかがえる。
維新後の五人組制度
慶応3年(1867年)の大政奉還・王政復古の大号令を経ても、五人組制度は江戸幕府とともに即座に消滅したわけではなかった。明治2年(1869年)の東京府や明治5年(1872年)の大阪府をはじめ、各地の府県でも五人組にならった隣保制度がしばらく引き継がれた。だが日本の政治が近代化し、各種の法律が整備されるにつれて、五人組制度は次第に形骸化し、隣保制度や「組合規則」と呼ばれる新しい仕組みへと姿を変えていった。数百年にわたって村の暮らしを支えてきた慣習だっただけに、簡単には消滅せず、地方によっては明治20年代頃まで、その名残が生活の中に残っていたとみられる。
編者は「福田村にもこの五人組制度に由来し、隣家制度と形を変えて伝わった慣習が生まれた」と結んでおり、五人組そのものは姿を消しても、村人が互いに支え合う仕組みは、形を変えながら生き続けていたものと思われる、と記している。
長三郎兵衛、覚左衛門、七兵衛――300年以上前に書き上げられた五人組頭の名は、今日の鈴木、杉浦、山中の家々に、確かにつながっている。破船の積荷をめぐる重い処分の伝えも、海辺に暮らす村ならではの記憶である。
参考資料
- 寺田勝彦編「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」(昭和62年/1987年12月25日発行、亀泉崖堂印刷社)
五人組頭の実名と現在の家との対照、および破船の掟をめぐる伝承は、編者による推測を含む記述にもとづく。判読の難しい古文書の性質上、断定を避け要旨として紹介している。