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磐田物語福田地区 / 逃散・欠落・不審者をめぐる村の掟

福田・江戸時代の村掟 | 逃散・欠落・不審者

逃散・欠落・不審者をめぐる村の掟 ── 福田村五人組帳を読む

浪人、出家、山伏、行者、念仏衆、乞食――こうした者を村に泊めてはならないという掟や、年貢を納められず村を出てしまった「欠落」「逃散」百姓への対応、検地から漏れた隠田の禁止まで。福田村五人組帳が伝える、村の秩序を守るための掟を、福田村五人組帳と同じ寺田勝彦編の資料集からたどる。

五人組帳には、火事や田畑の話だけでなく、村の秩序そのものを守るための掟も数多く記されている。見慣れない者を村に入れないこと、年貢が納められず村を離れてしまった者にどう対処するか、そして検地の目を逃れようとする隠し田をどう防ぐか。福田村に実際に残る古文書の実例とあわせてたどる。

本稿の要点

公式情報の整理

資料名
「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」
編集・発行
寺田勝彦(福田町)、印刷 亀泉崖堂印刷社
発行日
昭和62年(1987年)12月20日印刷・同月25日発行
関連法令
寛永14年(1637年)・寛永19年(1642年)の欠落・逃散に関する幕府の布告

不審な者を村に泊めるな

五人組帳には、「かけ落ち(夜逃げ)の者を村に泊めるな」という一条があり、あわせて浪人、出家、山伏、行者、念仏衆、乞食といった、素性のはっきりしない者を村に泊めてはならないと定められている。福田村に伝わる古文書には、この掟の実際の運用を示す届出文書も残っている。ある年の七月、五十子村の傳兵衛・傳衛門という父子が、懸け落ちの者を村内に抱え置いたとして、その事情を庄屋を通じて役所まで届け出たという記録である。逃げてきた者を安易に匿うことは許されず、たとえ理由があっても、まずは届け出るのが決まりであった。

また、お宮やお堂、草庵を日頃から見廻り、不審な者を見かけたら届け出るようにという条文もある。村の共同の祈りの場である社寺が、同時に不審者の隠れ場所にもなりかねないという警戒が、こうした条文に表れている。

欠落・逃散への対応

年貢を納められず、あるいは重い課役に耐えかねて、村を離れてしまう百姓もあった。福田村五人組帳には、こうした「欠落」「逃散」への対応も定められている。幕府は寛永14年(1637年)、続いて寛永19年(1642年)にも、逃げ出した百姓への対応を布告しており、逃げた者の田畑は、五人組・庄屋・組頭が責任を持って管理し、勝手に処分してはならないとされた。年貢の欠落分についても、五人組が連帯して負担する義務があった。

ただし、逃げた百姓がいつまでも帰ってこない場合、村がその田畑を無期限に抱え続けるわけにもいかない。一定の猶予期間を過ぎても本人が戻らなければ、田畑を親類縁者に引き継がせるなどの措置が取られたと考えられている。江戸時代を通じて、こうした欠落・逃散は各地の藩でもたびたび起きており、福田村もその例外ではなかったことがうかがえる。

隠田の禁止

検地帳に記載のない田畑、いわゆる「隠田」をつくることも、厳しく禁じられていた。福田村では慶長9年(1604年)に総検地が行われ、その結果が今日まで伝わる検地帳のもとになっている。検地から漏れた土地があれば年貢を免れることができてしまうため、幕府にとって隠田の摘発は年貢徴収の根幹に関わる問題であった。庄屋・組頭・五人組は、村内に隠田がないかを互いに見張り合う義務を負っていたと考えられる。

見慣れない者を泊めない、逃げた者の田畑を勝手にしない、隠し田をつくらない。ひとつひとつの掟は、年貢という共同責任のもとで、村の秩序を守り抜こうとした人々の緊張感を今に伝えている。

参考資料

五十子村の届出文書をはじめとする実例は、編者が紹介する古文書にもとづく。原文の判読が難しい箇所は要旨にとどめている。

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