火事、竹木、田畑――村の暮らしを支える基本的な資源をめぐって、福田村五人組帳にはそれぞれ細かな掟が定められていた。とりわけ田畑の永代売買禁止をめぐっては、幕府の禁令と、実際の農村の暮らしとの間に、微妙なずれが生じていた様子がうかがえる。
- 火事が起きた際は、村中総出で消火にあたることが義務付けられ、火消道具の備えも定められていた。
- 領主・領林の竹木は無断で伐採してはならず、村の自分の林であっても代官の許可が必要とされた。
- 寛永20年(1643年)の永代売買禁止令のもとでも、実際には「質物」という形で田畑の実質的な売買が行われていた。
- 福田村に伝わる古文書にも、田畑の質入れ証文が数多く残されている。
公式情報の整理
- 資料名
- 「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」
- 編集・発行
- 寺田勝彦(福田町)、印刷 亀泉崖堂印刷社
- 発行日
- 昭和62年(1987年)12月20日印刷・同月25日発行
- 関連法令
- 寛文6年(1666年)竹木伐採関連の郷村御触/寛永20年(1643年)田畑永代売買禁止令
火事の消火について
火事や村を守るのは、法令以前の問題であります、と編者は記している。一般農民の家の屋根を瓦で葺くことが、身分不相応で燃えやすい材料に相応でないとされた時代には、屋根は茅葺きが当たり前であり、いったん火事が起きれば燃え広がりやすかった。福田村の五人組帳には、村ごとに火消道具を割当て置き、火事の際に動員する人数を決めておくこと、平常時より他村が火消しに駆けつけた場合は、まといを掲げ、その者達が火元にかけつけ、火事場に出動する人数を割当て置くことなどが記されている。
火事の際に使う道具についても、御触書には細かな定めがあった。トビ口や水桶、もも引きなど、いざという時に動きやすい服装や道具を備えておくことが求められ、また村ごとに「郷倉」を設け、いざという時のための備蓄米を保管させた。放火や、消火の不手際による延焼は重い罪とされ、江戸時代を通じて火事は村にとって最大級の脅威のひとつであった。
竹木の無断伐採禁止
領主や領地に所有する木はもちろん、百姓が自分の所有する土地の木であっても、勝手に切り出すことは禁止されていた。寛文6年(1666年)、幕府は郷村御触の中で「木をやたらに切ってはならない」とし、百姓が自分の持ち山の立木を伐りたい場合には、代官所にその都度届け出て、許可を得てから伐ることとしております。この項目は、もともとは御領林から木材を盗み出すことを禁じたものであったが、のちに百姓が自分の所有する山から伐採する場合にも、領内で必要な用材を確保する目的から、同様に許可が必要とされるようになったと編者は解説している。
山林の乏しい福田村のような海辺の村では、燃料や肥料のための下草や落葉、薪にする木の需要が高く、防火林・防潮林である「御林」の保護も重視されていた。田畑の開発が進み、自然の環境が失われやすい土地であったからこそ、竹木の伐採にはとりわけ慎重な取り決めが必要だったと考えられる。
田畑の永代売買禁止と、その抜け道
寛永20年(1643年)、幕府は田畑の永代売買を禁止する法令を出した。田を耕し、米をつくり、年貢を納めさせることが幕府財政の基本であり、田畑が農民の手を離れて商人や富裕な者の手に渡ってしまえば、年貢の徴収が不安定になり、農村経済の維持が困難になる、という考え方があったためである。
しかし、この禁令にもかかわらず、田畑を質に入れる「質物」という形での実質的な売買は、江戸時代を通じて行われ続けた。福田村の文書の中にも、「質物二相渡す証文」と題された田畑の質入れ証文が数多く残されている。売買ではなく質入れという形式をとることで、永代売買禁止令をかいくぐっていたとみられ、寛永20年の禁令はその後の再禁止令にもかかわらず、実質的にはあまり効果をあげなかったとされる。
田畑を手放す農民が増えた背景には、農村にも次第に貨幣経済が浸透し、家の新築や娘の嫁入り、当主の病気など、まとまった現金が必要になる場面が増えていったことがある。福田村の文書には、「質物二相渡す証文」だけでなく、「譲り渡す証文」という形での田畑の移動も数多く見られ、いざという時に頼れる現金の必要性が、禁令という建前の裏側で、田畑の実質的な流動化を後押ししていたことがうかがえる。
火事から村を守り、竹木を大切に使い、田畑を手放さずに守り抜く。幕府が定めた掟の一つひとつには、限られた資源をどう分かち合うかという、村の切実な知恵が刻まれている。
参考資料
- 寺田勝彦編「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」(昭和62年/1987年12月25日発行、亀泉崖堂印刷社)
田畑の質入れ・譲り渡し証文をめぐる記述は編者の解説にもとづく。原文の判読が難しい箇所は要旨にとどめている。