太田川は、掛川市・森町・袋井市を含む上流地域からの水害を防ぐため、下流部の河川敷を広げて流域面積を大きくする改修工事が進められている。この計画区域に元島遺跡が存在するため、工事に先だって発掘調査がおこなわれ、弥生時代から江戸時代まで続く港湾遺跡としての姿が、あらためて明らかになった。
- 元島遺跡は、太田川下流域の集落へ物資や人を配送する集積配送センターとして機能した、弥生時代から江戸時代まで続く複合遺跡。
- 陶磁器や高級漆器など多数の遺物が出土。中世の遺物としては、瀬戸・美濃・常滑などの輸入陶器類が確認されている。
- 発見された墳墓の一つは直径5m、周溝を持ち、主体部は市内でも大変珍しい舟形粘土棺で、赤いベンガラ(朱)が残っていた。木製錠とともに、海運・水運を象徴する貴重な遺構とされる。
- 太田川は江戸時代初期、幕府の代官頭・伊奈忠次による河川改修で現在の流路になったと考えられており、当時の海岸線は元島遺跡のすぐ南側だったとみられる。
公式情報の整理
- 遺跡名
- 元島遺跡
- 所在地
- 磐田市福田地区、太田川下流域
- 時代
- 弥生時代〜江戸時代の複合遺跡
- 性格
- 太田川下流の集落へ物資や人を配送した集積配送センター(港湾遺跡)
- 主な出土品
- 陶磁器・高級漆器(輸入品)、中世の瀬戸・美濃・常滑焼、舟形粘土棺の墳墓、木製錠
- 調査のきっかけ
- 太田川下流部の河川敷拡幅工事(掛川市・森町・袋井市方面の水害対策)に先立つ発掘調査
このページでは、元島遺跡の発掘調査で判明した内容を、磐田市歴史文書館 第18回企画展「水運の拠点から織物の町へ〜福田町繁栄の歴史をたどる〜」(平成29年/2017年)の資料に基づいて整理する。
太田川下流の「集積配送センター」
太田川は、江戸時代の初期に代官頭・伊奈忠次が河川改修をおこない、現在の流路になったと考えられている。当時の海岸線は、元島遺跡のすぐ南側だったとみられ、太田川下流の集落へ物資や人を配送する、いわば古代から中世にかけての集積配送センターとして機能していた港湾遺跡である。中世の遺物として、瀬戸・美濃・常滑など各地から運ばれた陶器類が数多く出土しており、陶磁器や高級漆器といった輸入品も含まれる。これらは、元島の湊が単なる地域内の物資集散地にとどまらず、遠隔地との交易にも関わっていたことをうかがわせる。
舟形粘土棺の墳墓 ── 水運を象徴する遺構
元島遺跡で検出された墳墓の一つは、直径5mで周溝があり、主体部は市内でも大変珍しい舟形粘土棺だった。赤いベンガラ(朱)が残っており、木製錠(左)とともに、海運・水運を象徴する大変貴重な遺構とされる。舟の形をした棺に葬られたという事実そのものが、この地に暮らした人々の生活が、太田川の水運と分かちがたく結びついていたことを物語っている。
集落の移転と、消えた「元島」の地名
元島の集落は、その後の歴史のなかで姿を消していく。明応7年(1498年)の大地震では、元島・大島村一帯が大きな被害を受けたと『円通松堂禅師語録』に記されている。さらに、慶長年間の河川改修によって太田川と原野谷川の流路が付け替えられたことにともない、元島の集落は現在の位置へと移転したとみられている。「元島」という地名は、かつてこの地にあった集落の記憶を今に伝えている。
太田川の流路が今の姿になる、さらにその前。弥生から中世にかけて、この河口には物資と人が行き交う湊があった。福田という土地の「水運の町」としての性格は、この元島遺跡にまで遡る。
参考資料
- 磐田市歴史文書館 第18回企画展「水運の拠点から織物の町へ〜福田町繁栄の歴史をたどる〜」図録(平成29年/2017年1月10日〜2月28日)
- 『円通松堂禅師語録』
- 磐田物語「福田の成り立ち」「福田地区(地区ページ)」